2012年12月29日土曜日

「世界一」までのカウントダウン。長友佑都(サッカー)



「世界一」宣言

サッカーの「長友佑都(ながとも・ゆうと)」は2年半前、「世界一のサイドバックになる」と宣言して、イタリアへと渡って行った。

しかし当時の彼は、「イタリアの地方クラブ(チェゼーナ)に移籍を決めたばかりのルーキー」に過ぎず、「天才でもなければ、エリートでもなかった」。



その長友佑都、今や、イタリア屈指のビッグクラブ「インテル」で「不動のレギュラー」を張るまでに急成長している。わずか2年半で…。

「持久力とスプリント力は世界屈指。前にも後ろにも、あれだけの運動量とスピードで走れる選手はそう簡単に見つからない。これに関しては、長友が世界トップレベルだと思いますね」

そう長友を高く評価するのは、「狂気のサイドバック」の異名をとった男、都並敏史氏(元日本代表)。長友の攻守にわたる「無限の上下運動」は、チーム戦術に大きな幅をもたらしている。

「左サイドに限定すれば、今の長友は間違いなく世界のトップ10に入ると思います(都並敏史)」



いったい何が長友をして、その実力を急成長させたのか?

イタリアに渡ったばかりの頃の長友を知っているエルメス・フルゴーニ(チェゼーナ時代のコーチ)は、こう語る。

「当時の長友は、戦術理解に難があった。イタリア流のポジショニングをつかみかねていたんだ。ピッチ上でいるべき場所、いるべきタイミング、そして何をすべきか」



2年半前、フルゴーニの目には、長友の「拙(つたな)さ」ばかりが映っていた。それでも、長友の「貪欲さ」には舌を巻いた。

「一度やると言ったら、絶対あとには引かない。ユート(長友)の練習に取り組む姿勢、あれは『覚悟』といった方がいいだろう」



いつも体当たりだったという長友。世界屈指のビッグクラブである「インテル」への移籍が決まった時には皆、「アイツなら必ずやれる」と確信していたという。

「成功を疑う人間は、誰一人いなかった(フルゴーニ)」



クラブW杯で世界一になったばかりインテルへ移籍した長友。その「貪欲さ」にはさらに磨きがかかる。

当時のインテルには、長友が憧れる「世界最高のサイドバック」がいた。マイコンだ(現・マンチェスターC)。その彼と同じチームになったからには「もう憧れとは言っていられない」。長友はマイコンを「超えるべきライバル」として、「吸収できるテクニックはすべて奪った」。



日々の練習への「覚悟」、そして「貪欲さ」。長友は昨季までに4人の監督に仕えているが、この覚悟と貪欲さは誰しもが認めるものであった。

インテルの現監督であるストラマッチョーニは、そんな長友への期待を大きく膨らませる。

「あいつはもっと危険な選手になれるし、彼は絶対に手放したくない選手だ」

ストラマッチョーニ監督に言わせれば、長友は「自分がインテルに来てから『最もうまくなった選手』」。加速度的な成長を続ける長友は、立ち止まることを知らぬようである。



世界のトッププレーヤーたちは「成り上がるのに時間をかけない」。ロナウドもイブラヒモビッチも「ステップアップを待たなかった」。

「最短距離で頭角を現して、ライバルを置き去りにすると、待ったなしで一気に上り詰める」



話飛んで、今季14節のパルマ戦。ミスを連発したインテルは「よもやの敗戦」を喫する。

この試合、インテルには天才司令塔のスナイデルもいなければ、長友とコンビを組むカッサーノもいなかった。悔恨の残る敗戦。険しい表情の長友は「ヘラヘラしている人間は一人もいない…」と試合後に語った。



「もし、スナイデルとカッサーノがいたら?」と聞かれた長友は、ピシリとこう言い放つ。

「そんなこと言っていたら、スクデット(セリエAのリーグ優勝)なんて獲れない。彼らがいなければ、僕らはサッカーができないのか? いやできない、と言うようだったら、本当の意味で優勝争いなんかできない」



長友の顔はもはや「独り立ちする男のそれ」。

世界一宣言から2年半、長友の心には「世界を4度制した国、イタリアのメンタリティ」がすでに宿っている。

「長友は、3ヶ月と同じところにはいない」



2年半前の世界一宣言は確かに、「怖いもの知らずの夢物語」に過ぎなかったかもしれない。

しかし今、長友は「凄まじい勢いで、その目標に近づいている」。

「世界一を目指す上で超えるべきハードルはもはや、『今より1m内側にシュートを打てるか』、『ドリブルを仕掛けるために25cmの幅を作れるか』、という微妙な差に過ぎない…」





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/10号
「セリエAを駆け抜けろ 長友佑都の成長サイクル」

2012年12月23日日曜日

本田圭佑の「ノー」。先を走る「自分」



「本田圭佑が口にする『ノー』は、ネガティブな否ではない。オバマ大統領の『Yes!』並みの『肯定』だ」

たとえば南アフリカのW杯(2010)前、日本代表の岡田監督は「ベスト4が目標」と発言して、世界の失笑を買っていた。そんな中、本田ばかりは「ベスト4ではなくて、『優勝』を目指してもいい」と逆方向から否定した。



「ネガティブな要素をどうやってかき消すかということに集中して、良いところだけを見ようとして前に進んで行かないと…。オレは何でもポジティブにやるからさ」と本田。

「マイナス × マイナス = プラス」

本田はマイナスの思考を打ち消すために、あえて「否定を使う」のであった。



本田の中には「絶対的な本田」がいる。

それは本人曰く「先を走る自分」であり、その本田はブラジルW杯で優勝しているし、世界最強クラブ、レアル・マドリード(スペイン)の10番をつけている。

「自分がイメージする自分というのは、だいぶ先を走っているんでね。それに追いつこうとするには、チンタラやってられない。強引なことをしていかないと」と本田。



確かに人間という生き物は、頭の中で想像したことしか実行に移せないのかもしれない。

だから本田は言うのである、「イメージできたら、ほぼ成功」と。



金髪で両腕に時計を光らせる本田は、人々に何をイメージさせようとしているのだろう?

本田曰く、「サプライズは自分の性格の一部。驚かすことにこだわっている。『いつまで経っても読めへん』というのは最高の褒め言葉」。

本田が用意するサプライズは、一般常識を強引にひっくり返そうとしているかのようである。

「慣れられたくない。つねに上を行きたいと思っている」と本田。



「クール」な表の顔、変人と紙一重の「傍若無人ぶり」、ときには「サービス精神にあふれたイタズラ小僧」…。本田という人間は「複数の顔」に彩られている。しかし最近、彼は「ピッチ内とピッチ外の自分を一致させたい」と考え始めているという。

「今までは、プレーはプレー、サッカーはサッカー、オレはオレ、みたいな感じで別モンやって切り離していた。でも、そうじゃなくて、自分の『人間性』をプレーで伝えていきたい」と本田は語る。



振り返れば2010年の南アフリカW杯の直前、本田は「豹変」していた。

「本田は突然、試合2日前に一気に集中を高め、チームメイトすらも近づきがたい鬼気迫るオーラを放つようになった」

そして、ピリピリとした緊張感で尖っていたその本田は、W杯での2ゴールを生むのである。



「自分としては、試合に向けて2日前くらいにスイッチを入れるやり方に変えようとしていた。最初は意識しないとできなかったから、その作業をかなり徹底していた」と本田。

それが今は、「あえてスイッチを入れることも、切ることもしない」と本田は言う。それは「意識しなくても、自然にできるようになったから」とのこと。



なるほど。本田が「複数の顔」を見せるのは、「統合への過程」なのかもしれない。つねに自分のやり方を破壊して、新たなやり方を創造している本田。その哲学は「破壊と想像」とよく言われる。

しかし彼に言わせれば、ベースとなっている哲学は「常にブレない」。場面に応じて言い回しや表現は変われども、哲学は「首尾一貫している」と彼は言う。



「基本的に、同じことしか言わんのよね。それをユーモアを交えて、違う言い回しで話したりはするけど、結局のところ何も変わらへんから」と本田。

「プレーと性格が全然違うやん!っていうサッカー選手がたくさんいるよね。でも、それやったら自分はあかんと思っている。それだと、みんなに『オレ』っていうものを伝えている意味がないから」と本田は語る。





かつて、アップルの革命児スティーブ・ジョブズはこう言った、「間違った方向に進んでいないかを確かめるために、1,000の事柄に『ノー』と言わなければならない」と。

日本サッカー界の革命児たる本田も同様、「先を走る自分」に追いつくために、それを妨げようとする1,000の事柄に彼は「ノー」と言う必要があるのかもしれない。

そして、その「1,000のノー」先にこそ、誰もが納得する大きな「Yes!」があるのだろう。



とあるイベントにて、本田は52分も遅刻しておきながら、待っていた子供たちに「人の話を聞く態度がなっていない」と説教をたれていた。そして滔々と「夢を持つことの大切さ」を語り出す。

話が終わった後、サングラスをかけたままボールを蹴ってみせた本田。子供たちに大喝采を浴びて、満足気に会場をあとにしたという。



一見、支離滅裂。「こんな変な人、滅多にいない」。しかしそれでも、彼の言わんとするところはきっと子供たちには伝わったのであろう。

「本田圭佑っていうものをドンドン感じていってもらえたらなと思う。自分がどう思ってもらいたいかっていうところと、みんなの評価が一致したら本望やし…」と本田。



「オレという本田」と「プレーする本田」、そして本田の提示する「自分」と我々の感じる「本田」、それらのすべてが一致した時、日本代表はW杯に優勝しているのかもしれない。

そしてその時の本田は、きっとレアル・マドリーの10番をつけているのだろう…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/10号
「人間・本田圭佑をプレーで伝えたい」
「本田圭佑とスティーブ・ジョブズ」

2012年12月22日土曜日

世界一タフな選手「湯浅直樹」。苦節15年の先にあったメダル(スキー)。


「死んでも攻める!」

その信条を体現したかのような「湯浅直樹(ゆあさ・なおき)」。

スキーW杯、第3戦(イタリア・マドンナディカンピリオ)で「自身初の表彰台」に立った(回転3位)。



「ラストの6旗門から何も覚えていない」

のちにそう語る湯浅は、コースアウト寸前の猛スピードのまま、前のめりにゴール。そのまま転倒して「動けなくなった」。

持病のヘルニアが極度に悪化したのだ。



それでも、滑っている間は痛みは感じていなかったという。

「集中力が極限状態なので」と湯浅。

ゴール後は、倒れこんだまま「タイムも順位も分からない」。



アルペンスキーのレースは2本滑った合計タイムで競われるのだが、一本目の湯浅のタイムは26位(首位と2.06秒差)と大きく出遅れていた。

幸いにも2本目は、一本目のタイムが30位の選手からの逆スタートとなる。そのため、一本目26位の湯浅は2本目の5番スタートという好条件でスタート(出走が遅れるほどバーンが荒れてタイムが伸びなくなる)。



そして、「死んでも攻める!」と突っ込んだ2本目のタイムは、なんと全体で2番目に速いタイム(50秒65)。

ゴール後は「タイムも順位も分からなかった」湯浅であるが、その好タイムにより、順位は一気に3位まで急浮上。それが自信初の表彰台(3位)につながったのだった。



じつは一本目の直後、湯浅は「スタッフ2人に抱えられないと動けない状態」だったという。それでも約2時間半後に行われた2本目で、湯浅は驚愕のハイパフォーマンスを見せたのであった。

2本目の直前、湯浅は「次の一本で倒れて死んでも悔いはない…!」と思い極めていたという。



スキー板を杖にして表彰台に上がった湯浅。表彰台でも「吐き気と鼻水が止まらなかった」。

日本人の男子選手としては史上4人目となるスキーW杯の表彰台。岡部哲也、木村公宣、佐々木明に次ぐ快挙である。



「こんなタフな選手は世界中にいない!」

ライトナー・チーフコーチがそう言うほど、湯浅直樹はタフな選手だ。その決死のゴールシーンもさることながら、湯浅は15年以上も第一線で活躍を続けているのだ。

第一線に常にいたものの、惜しいところで湯浅はいつも表彰台に上れなかった。トリノ五輪(2006)は7位、去年の世界選手権では6位、W杯の最高位は2度の5位(昨季)…。



そして、迎えた今回のW杯第3戦。初の海外参戦から苦節15年を経て、湯浅は表彰台にたどり着いたのだった。それはW杯83度目のレースであった。

コツコツと着実に力を蓄えてきた29歳のスキー・レーサー、湯浅直樹。その重いメダルを手に、こう語る。

「奇跡ではなく『積み重ね』の一つ」

一本目26位からの表彰台というのはスキーレースにおいては奇跡に近い。しかし、湯浅はそれをこれまでの「積み重ね」の一つだと言うのである。彼ほど積み重ねてきたものの多いスキー・レーサーもそうそういないだろう。



「15年以上も海外遠征を続けてきて、胸を張って日本に帰れたのは初めてです」

成田に降り立った湯浅は、笑顔でそう話す。



今回の快挙によって、湯浅は「ソチ五輪のメダル候補」に急浮上。

「幸か不幸か、(アルペンスキー競技の)日本人優勝者は一人もいません。自分でなければやる人はいないと自分に言い聞かせて、歴史を変えたい」

湯浅は力を込めてそう語った。



今季開幕直前に再発してしまった持病のヘルニア。その治療もままならぬまま、12月28日には再びヨーロッパへ乗り込む湯浅。

願わくば、彼の腰がもってくれんことを…。



日本のアルペンスキー界が、久しぶりに見い出した光のタネ。

ただただ、彼のタフさを信じたい…。





ソース:Number
「湯浅が銅 83度目の挑戦で/W杯スキー」

2012年12月21日金曜日

タイム計測、「誤差」とのせめぎあい。


第二次世界大戦前、陸上100m競技のタイムは「手動」で計測されていたという。

「手動だから当然、『誤差』が生じる」

その誤差をなくそうとしたのが「電動計測」であり、それは戦後初のオリンピックとなったロンドン大会(1948)から導入されたものである。



今から64年前の当時、電動計測とともに、1秒間で10コマ撮影できるカメラが用いられた(フォト・フィニッシュと呼ばれる特殊なカメラ)。

この写真判定の原理は今でも変わらない。しかし、そのシャッタースピードは格段に進化した。このわずか4年後には10倍(1秒間に100コマ)、そのまた4年後には100倍(1秒間に1,000コマ)にまで高速化。

今年のロンドン五輪では、1秒間に2,000コマの撮影が可能となっている。つまり、人類最速は「2,000分の1秒」という正確さで写真記録できるようになったのである。



写真判定ではなくタイムだけの計測となれば、もっともっと精密である。

機械式からクォーツ(水晶時計)、そしてクアンタム(量子)タイマーへと精度を増していき、今年の大会は「100万分の1秒単位」で計測された。



「スタートからゴールまで、わずか9秒の間に起こりうる誤差を『限りなくゼロ』に近づける」

そのためには、タイム計測ばかりでなく、スタート時のピストル音にまでこだわらなければならない。なぜなら、音が空気中を伝達するのにも時間がかかる。具体的には「8コースの走者にピストル自体の破裂音が届くのに、『0.03秒』かかる」。

だから、今はもうピストル自体が音を発することはなくなっている。「今年の最新のバージョンでは、各コースのスターティング・ブロックの後ろに『スピーカー』が設置された」。これで、どのコースの選手にもほぼ同時にスタート音が届くようになったのである。



また、スターティング・ブロック自体が、選手のフライングを感知する。

ルール上、号砲後10分の1秒以内の反応がフライングとなるが、「計器自体は1000分の1秒単位で、ブロックにかかる圧力を感知している」



「正確にタイムを測る」

誤差を限りなくゼロに近づけるためのIC技術の進化により、現在のレース計時は飛躍的に向上している。

それでも、「正確に」ということに限界はない…。





ソース:Number
「人類最速は2,000分の1秒単位で記録される」

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「自宅にいながら、海外の有名コースを体験できる」

ロッキー山脈など世界10コースが選べ、走行速度に合わせて画面や傾斜などが変わる優れもの。

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2012年12月18日火曜日

オリンピックの「魔物」とは? 内村航平(体操)


オリンピックにはやはり「魔物」がいるのだろうか。

男子体操の「内村航平(うちむら・こうへい)」の口から出てきたのは「魔物」という意外な言葉だった。

彼は体操界の絶対王者。体操史上初の世界3連覇。ロンドン・オリンピックの金メダルも確実視されており、「内村以外の選手で銀メダルを争う」と他の選手たちが言うほどであった。



ところが、その王者・内村が鉄棒で「落ちた」。

あん馬でも「落ちた」。

いずれの落下も「普段の内村」ならば、決して落ちるような場面ではない。



「落ちたというより『落とされた』ような感覚」と内村は振り返る。「鉄棒では、飛び出した時に左肩を『後ろから引っ張られた』ような感覚があったんですよ」。

なぜ落ちたのか、内村は選手村に戻ってからもずっと考えていた。そして、小さい頃から聞いていた「オリンピックに住むという魔物」の話を思い出した。

「ああ、これか…」



「魔物を倒してきます」

魔物に落とされて以来、内村は友達からのメールにひたすらこう返信していたという。

友達からの反応は「らしくないけど頑張れよ」という類のものだった。



振り返れば、前回大会・北京オリンピックの時はずっと楽だった。

「何も考えずにそのままヒョイとやったら上手くいったんです」

それは無欲の勝利であった。当時まだ19歳、「オリンピック、かかって来いよ!」ぐらいの勢いのままの金メダルだった。



ところが、今回のロンドンでは「欲」が出た。

「今までで一番のことをやりたい。いい演技をしたい!」

それは選手として当然の欲なのかもしれないが、内村にとっては「らしくないこと」であった。そして、そこに魔物の付け入るスキも生まれてしまった。



「たぶん、ちょっと『いい気になっていた』と思うんです」

無敵の王者は、さらに「らしくないこと」を言う。

「だから、オリンピックの魔物に『舞い上がってんじゃねえよ』みたいなことを言われたような気がしました」



その「魔物」に学んだことは多かったとも、内村は言う。

「やっぱり、いつもと違うことを考えると、ああいう風になるのだということをつくづく感じました」

日本チームの中で内村ばかりが「一人だけ舞い上がっていた」。それだけオリンピックに賭ける思いが強かった。

「もう少し周りに合わせてやっていけば良かったのかなとも思います」



「次のリオデジャネイロ五輪は、欲も何も出さないで、本当に何も考えずにやりたい」

最後に内村はそう口にした。それは今回の金メダルがいかに苦しかったかの裏返しでもあった。



ところで「魔物」といえば、女子レスリングの小原日登美選手のエピソードも印象深い。

「五輪に魔物はいない」

夫から出発直前に手渡された手紙には、そう書かれてあった。この言葉を小原は何度も何度も心の中で唱えていたという。



内村航平も小原日登美も、2人ともに金メダル。

両者とも、結果的には「魔物」に屈することはなかった。



オリンピックに魔物がいるのかどうか、それはその場に立った選手たちにしか分からない。

彼らが「いる」と言えばいるのだろうし、「いない」と言えばいないのだろう。

ただ、オリンピック選手たちが「魔物」に関する名言を残せば残すほど、次の選手たちを苦しめていくことになるというのも皮肉な話である…。






ソース:Number
「オリンピックには魔物がいた 内村航平」

2012年12月17日月曜日

「狙う能力」。錦織圭(テニス)

「トップ10に勝てない選手なんて、トップを狙えない」

テニスの「錦織圭(にしごり・けい)」の野望は、世界ランキング・トップ10選手たちを撃破すること。そして、自身がトップに躍り出ることだ。



昨年11月、錦織は世界ランク1位(当時)のジョコビッチをスイス室内で初めて破った。

しかしその後の決勝戦では、不動のビッグ4の一角、フェデラーに完敗を喫してしまう。



「ジョコビッチに勝って、自信は当たり前にありましたけど、フェデラーには『こてんぱん』にやられてしまいました…」と錦織。

ジョコビッチを破った喜びは、決勝で待ち構えていたフェデラーによって帳消しにされてしまった。錦織の自信は一気にしぼんだ…。



「守ってばかりでは勝てない、というのを改めて感じました」

トップ10選手たちを相手に、先に攻められてしまっては「全部やられてしまう」。

「それで、『攻めよう』、そう意識しました」



オフシーズンの間に、より攻撃的なテニスに軌道修正したという今季の錦織。

「もうちょっと攻めるテニス」

それが2012年バージョンの錦織であり、トップ10撃破を強く意識した錦織であった。



しかし、結果は思うようにはついてこない。

4月のバルセロナ大会は腹筋のケガで準々決勝を途中棄権。続く全仏も欠場。ウィンブルドンでも3回戦敗退。アトランタでは添田豪にまで完敗…。

「最悪でした…。いい試合は一つもありませんでした…」



そんな不安の中に迎えたロンドン・オリンピック。

「何かを変えなければ…」。立ち直りのヒントもキッカケも見つからなかった錦織は、もはや背水の陣にまで追い込まれていた。

ただ確かなのは、「今までと違うことをしなければ…」ということだけだった。



「何が起きても攻めよう!」

負けを恐れずにラケットを振り抜いた錦織。そしてもたらされた「久々のトップ10選手から奪った勝ち星」。

3回戦で当たった世界ランク5位のフェレールに錦織は攻め勝った。そしてその勝利は、日本男子としては88年振りとなる「オリンピック8強入り」という快挙ともなった。



「ふっきれた」

オリンピック後、錦織は自身のブログにそう書いた。

狂いかけていた歯車は、オリンピック後から徐々にかみ合い始める。

「急に来ましたね(笑)。クアラルンプールで久しぶりのベスト4。急に打破できました」

そして、続く日本での楽天オープンは優勝。「突然の覚醒」だった。



昨季の世界ランク25位から、今季は19位にまでランクを上げた錦織圭。目標としていたトップ20入りを果たすことになった。

世界ランキング以上に錦織が重きを置いていた「トップ10との直接対決」。その結果は3勝5敗(勝率38%)でツアー全体の10番目。

「悪くないですね。早くトップ5にも勝ちたいです」と錦織。



来季はいよいよ、錦織自身のトップ10入りも現実的な目標になってきた。

次のターゲットとなるのは、不動のビッグ4(ジョコビッチ・フェデラー・マレー・ナダル)に世界ランク7位のデルポトロを加えた「トップ5」。



今の錦織にはもう「追撃の準備」は整った。

彼には十分に「狙う能力」が備わっている。

「早い段階で勝っておきたいです」






ソース:Number
「迷いの日々、そして突然の覚醒 錦織圭」

2012年12月15日土曜日

バレーボールと母親と…。「大友愛」


「もう二度とコートに立つことはない…」

女子バレー日本代表の「大友愛(おおとも・あい)」は、結婚・出産のため、2006年に「引退」をしていた。



その育児中の大友に対して、熱心に「復帰」を勧める男がいた。全日本の監督、眞鍋政義氏である。

「僕の考えはシンプル。チームが勝つためには『大友の力』が必要だった」

ミドルブロッカーの大友は、そのスピードと攻撃力で将来を嘱望されていた。そんな中での引退は、じつに惜しいものであったのである。



大友に惚れ込んでいた眞鍋監督はベビーシッターを雇うなどして、「母親が安心して働ける環境づくり」に勤しんだ。

「僕はイタリアでもプレイしていたので、出産しても活躍している海外の選手たちを大勢見てきました。だから、『日本では無理』とか『前例がない』という考えは、僕にはありませんでした」と眞鍋監督。



そんな眞鍋監督は、まんまと大友の招聘に成功する。眞鍋監督の積極的な行動に大友は「覚悟を決めた」のだった。

「眞鍋さんと話しているうちに吹っ切れました。またバレーをやる以上、今度は死ぬ気でも頑張ろうと思いました」と大友。



しかし、その大友を最大の試練が襲う。

2011年9月のアジア選手権、大友は右ヒザ前十字靱帯および内側側副靱帯を断裂。ロンドン・オリンピックに間に合うかどうかの大怪我を負ってしまう。



ひどく落ち込む大友。

それでも眞鍋監督は前向きだった。「待ってるからな」、そう大友に声をかけた。

「この一言にどれだけ救われたか…」、感に堪えぬ大友。「眞鍋さんは私の運命を変えた人なんです」。



右脚を引きずる大友をW杯に帯同させた眞鍋監督は、試合のスコアをつけさせるという仕事を任せた。

それは「試合勘が狂わぬように」という配慮からだった。



懸命にリハビリに励んだ大友は、眞鍋監督の期待通りにオリンピック・メンバー12名にその名を連ねることになる。

オリンピック準々決勝の中国戦。最大の激戦となったこの試合、ひとかたならぬ活躍を見せた大友は、歴史的勝利の栄光に浴することとなった。



その死闘のあと、大友はコートサイドに5歳の愛娘の姿を見つけた。3ヶ月ぶりに見るわが子であった。

「抱きしめたい」、そんな母性本能が沸き上がってきた大友。

しかし、その感情にあえて蓋をした。そして、娘を無視。




「娘を抱いちゃうと、感情が切れてしまいそうだったんです…」と大友。

まだ戦いは残っていた。これからまだ、オリンピックのメダルを賭けた戦いが待っていたのだ。



その後の結果は万人の知るところである。

28年ぶりの快挙。女子バレー日本代表は悲願の銅メダルを手にすることとなる。



そうしてようやく、大友は感情を切らすことに…。

出産してなおメダルに手が届いた母親・大友愛。そして、母の不在を健気に耐えた愛娘…。



ブレなかった大友の一本道。

日の丸を世界に示してのち、ようやく母親に戻ることが許された…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「眞鍋さんは私の運命を変えた人なんです 大友愛」

2012年12月14日金曜日

「中国と戦う夢」。脱・根性バレー、眞鍋監督


「中国が夢に出てきたから、間違いない」

全日本女子バレーボールの監督「眞鍋政義(まなべ・まさよし)」氏は、選手たちにそう断言した。

眞鍋監督はロンドン・オリンピックが始まる前から「中国戦」を想定していたというが、その根拠は「夢に出てきたから」という実に可笑しなものだった。



「眞鍋さんが中国が夢に出てきたからと、『訳の分からないこと』を言うんです(木村沙織)」

さすがに選手たちも苦笑せずにはいられない。それでも、疑問を差し挟む選手はいなかった。



「だって、眞鍋さんの言うことはこれまでだって『その通り』になっていますから」

10年以上も日本代表を務め、これまで何人の監督をも見てきた竹下佳江もこう言う。

「眞鍋さんの言うことって、『ムカつくほど当たる』んですよ。そうかな? と思う時もありましたが、結局は眞鍋さんの『言う通り』になってきました」



この時もやはりそうだった。

眞鍋監督の夢の通りに、日本は準々決勝で中国と当たった。

日本はオリンピックで中国に勝ったことは一度もなかった。それでも、ロンドンでは勝った。それはひとえに、眞鍋監督が夢のお告げを軽んぜずに、中国対策を万全にしておいたからでもあった。



「でも、それは勘とかじゃないんです」と竹下佳江。「アナリストが分析する『膨大なデータ』を常に読み込んでいるからこそ、眞鍋さんには見えてくるんだと思います」。

「データの見せた夢」、それが眞鍋監督の対中国予想であったのだ。



眞鍋監督がデータを重視するのは、自分が「残念ながらカリスマになれない」と諦めていたからだった。

日本バレーボール界は長い間、カリスマ監督といわれる指導者を起用するのが常だった。しかしながら、オリンピックのメダルが遠くに霞んでしまった1990年代以降、女子バレーにはどこか「湿っぽさ」が付きまとうようにもなっていた。

1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた「東洋の魔女」は、もはや過去の栄光にすぎず、「根性バレー」の弊害に苛(さいな)まされ続けていたのである。



根性バレーにおいて、「頑張れ!」「もう少し!」とか言われても、選手たちにはピンと来ない。「どこをどう頑張ればいいのか、具体的には分からなかった」。

それでも、「カリスマ指導者の特訓にひたすら付いていくしかない」。こうした構図が女子バレー界には脈々と受け継がれており、それが足かせともなっていた。



ところが、自らをカリスマではないと断言する眞鍋政義監督の登場は、その風を一気に変えた。

選手たちの日々の練習データや試合のスタッツ(統計数字)が体育館にいつも張り出されるようになり、「この数値の高い順からコートに立てる」と眞鍋監督は選手たちに宣言したのだった。

かつてない透明性、そして公平性がそこにはあった。



しかしその当初、「選手たちはそれを嫌がった」。まるでテストの成績を公衆の面前に晒されているように感じたからだった。

「でも、自分のパフォーマンスが毎日データ化されるようになって、自分に足りない部分がハッキリ分かるようになった」と大友愛が言うように、この透明性は次第に選手たちにも受け入れられていくこととなる。



データ、データというと冷たく響くが、その一方で眞鍋監督は選手たちとの「対話」もとりわけ大切にした。

「僕はたぶん世界で一番『選手と対話してきた監督』じゃないですかね」

そう自負するほどに眞鍋監督は「選手との個人面談を繰り返し、自分がどういう選手になりたいのか、対話を繰り返した」という。



たとえば眞鍋監督は、日本のエース木村沙織に「お前が崩れたら、日本は負ける」と言い続けた。

それは試合のデータやスタッツ(統計)に基づくものでもあり、度重なる対話の中から監督がつかんだ木村の活かし方でもあった。



「何を大袈裟な…」

当初、木村沙織は眞鍋監督の言葉を聞き流していた。「そもそもチームスポーツって、一人の選手の出来、不出来で勝敗が左右されるはずがない」。

だから、木村にとっての眞鍋監督の言葉は、「は?」という感じでしかなかった。



それでも眞鍋監督はしつこかった。繰り返し繰り返し、事あるごとに「お前がダメならチームは負けるんだ」と木村に言い続けた。データやスタッツを木村に見せながら、「だから勝った」「だから負けた」とその都度、説明を繰り返した。

「そうやって対話を繰り返していくうちに、眞鍋さんの言葉が徐々に身体に染み込んできたんです」と木村。「そこまで言ってくれる眞鍋さんの期待に応えたいと思うようになり、ドーンと肝が座りました」。



ついに目覚めた日本のエース、木村沙織。17歳で全日本入りして常にチームの最年少だった木村は、ついに日本の大黒柱となったのだ。

木村はオリンピックを通して相手国から執拗に狙われることとなるが、彼女がその圧力に屈することは決してなかった。

それは、木村がどんなに狙われてスランプに陥っても、眞鍋監督が木村をスタメンから外したことがなかったからでもあった。あらゆる経験を通して、彼女には十分に「苦難に耐え忍び、逆境を撥ね退ける精神」培われていたのである。



「眞鍋監督は全日本女子バレーを変えた」

世界一といわれるデータ収集能力を駆使しながら、選手たちとの信頼を揺るぎないものとした眞鍋監督。

そうして作り上げられた「眞鍋ジャパンの結晶」とも呼べる戦いが、ロンドン・オリンピックでの「中国戦」であった。



選手たちは「夢に出てきた」という眞鍋監督の根拠のない言葉を愚直に信頼し、中国対策を万全に練り上げていた。中国の弱点は監督得意のデータによって、すべて洗い出されていたのである。

「息詰まる熱戦」。セッター竹下佳江は、指を骨折してなおトスを上げ続け、その乱れたトスを選手たちは懸命に中国コートに叩きつけた。エースの木村はここぞとばかり、大いに吠えた!



中国との決戦が第5セットにまでもつれ込んだ時、眞鍋監督はそれまで決して手放すことのなかったiPadをベンチに置いた。

「もはやデータに頼らなくても、このチームは必ず勝つ」

眞鍋監督はそう確信した。iPadを置いたこの時、監督の選手たちへの信頼は心底揺るぎのないものとなっていたのである。



28年ぶりの銅メダル。

それは、中国を制した日本女子バレーがこじ開けた「開かずの扉」であった。

その鍵はどこにあったのか?

眞鍋監督が見たという「中国と戦う夢」には、その鍵のありかが見えていたのかもしれない。そして、選手たちにかけられることになるメダルの夢も…。








ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「中国と戦う夢を見た 眞鍋政義」

2012年12月13日木曜日

「言葉の力」栗山英樹・日本ハム監督


「何でオマエ、勝てないの?」

日本ハムの「栗山英樹(くりやま・ひでき)」監督は不思議に思っていた。

それくらい吉川光夫・投手は勝てなかった。1年目には4勝を挙げたものの、2年目以降は「4年間でわずか2勝」という低迷ぶり。「未来のエース」の未来は遠ざかるばかりであった。



吉川投手に実力がなかったわけではない。

栗山監督自身、「吉川の力に惚れ込んでいる」と明言するほどなのだ。「それぐらいのボールは持っていました」。



なぜ、吉川投手は勝てないのか?

「もっと信じてあげて、もっといい形で使ってあげれば、もっと力を発揮できるはず」。栗山監督はそう考えた。

だから、今年一年間は吉川投手を「先発ローテーションから絶対に外さない」と栗山監督は約束した。その一方で、「それでもダメだったら、ユニホーム脱がすよ」とも脅しをかけ、吉川投手の退路を絶った。



結果は?

「14勝5敗」、そしてMVP。

5年がかりでも6勝しか挙げられなかった吉川投手は今年、大いなる飛躍を遂げたのであった。



「監督が背中を押してくれました!」と吉川投手は、並々ならぬ感謝の言葉を口にする。

それをサラリとかわす栗山監督、「僕は何もしていない。やったのは選手ですから」。



栗山監督が理想とする監督は「三原脩(みはら・おさむ)」氏。背番号80は、この伝説の名将・三原氏にあやかるものである。

「昔の人は、三原さんは『言葉の魔術師』だったってよく言うじゃないですか。あの宮本武蔵でさえ、剣よりも言葉の方が強いって言ってたらしいからね」



伝説の名将・三原氏には、こんなエピソードがある。日本シリーズ、9回無死2塁のチャンス、一打出れば逆転という場面である。

三原監督はバッター豊田泰光に「打つか?」と尋ねる。その言葉に驚く豊田、「ここは送りましょう」と送りバントを申し出る。

向こう気の強い豊田に対して、さらに強く出た三原監督。その結果、もっとも望ましい方向へと導いていったのだった。



栗山監督の「理想の采配」もそこにある。

「どう仕向けるかですよね」

栗山監督は吉川投手に対して、「勝て」とか「抑えろ」という直接的な言葉を意識的に避けてきた。

「結果を言ってもしょうがない。そこに導くことが我々の仕事なわけですから」



なるほど、栗山監督はじつに理知的である。さすが、スポーツキャスターや評論家、大学教授まで務めただけのことはある。

しかし、彼の現場での言葉には「そこまでの戦略性は感じられない」。むしろ「情緒的」ですらあるのだ。

「計算するとウソがばれますから。感情が沸き起こった時に言わないと伝わらないんですよ」



理論を捨てた栗山監督の感情は「直球」であった。

そんな彼の言葉は「愚直」ですらあった。



栗山監督が現役時代、「簡単にクビを切られる同僚」を間近で何人も見てきた。

監督自身もケガに泣いて、球場を後にすることを強いられた。

だからこそ、現役選手の苦悩は胸に突き刺さる。実力を持ちながらも力を発揮できていない選手などは、もう見ていられない。



「どこに投げてもいいから、『自分の一番いいボール』を投げようよ」

栗山監督は迷走していた吉川投手に、それを言い続けた。「最後まで『自分の投球』をやり切るんだぞ」。



6月5日の広島戦、未だ闇の中にいた吉川投手は、相手打者に頭部死球を与えてしまい、危険球で退場になってしまった。

うなだれる吉川投手に、栗山監督はこう言った。

「もう一回当てろ」

真面目すぎる吉川投手には、それぐらい強い気持ちを持たせないと「怖さが残ってしまう」危険があったからだ。



時にはそこまで強い言葉を吐きながら、栗山監督は選手たちの芽を大切に大切に育んだ。だから、自分の選手たちが活躍する姿を見ると、自然と涙がこぼれてしまう。

「ベンチで泣く監督」

日本ハムの新たな風物詩。

それがこのチームの最大の求心力ともなった。

言葉の魔術師に憧れた栗山監督は、もうずっとずっと言葉の先にいるようでもあった…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「名将の言葉力 栗山英樹」

2012年12月12日水曜日

「プロとは?」。イチローの探し求めた答え


「プロはいかにあるべきなのか?」

12年前にアメリカに渡ったイチローは、「プロとしての姿勢」を古巣のマリナーズで繰り返し語ってきたという。

「チームが苦しい時ほど、自分が何をすべきかにフォーカスしなければならない」

しかし残念ながら、イチローのこの想いはマリナーズの選手たちに伝わったとは言い難かった。



そして今年の夏、イチローはマリナーズを去った。

ニューヨーク・ヤンキースへの電撃移籍。

それは「メジャー12年目の再出発」であった。



そのヤンキースのクラブハウス(選手控え室)は、どこか「冷たい印象」だった。

「勝っても大げさに喜ばず、かといって敗戦に落ち込む様子もない」

ヤンキースのクラブハウス内では、明らかに選手たちの喜怒哀楽が少なかったのだ。



しかし、それは「冷たさ」ではなく、「落ち着き」だった。

「ここでは精神的にすごく成熟した空気が存在している」とイチローは感じた。

そして、クラブハウスのこの落ち着きこそが、ヤンキースの「自信の裏返し」でもあった。「敗戦後でも、感情にまかせて用具やロッカー機材に八つ当たりする者は、シーズン中ほとんどいなかった」。



彼らは決して「先のことを考えない」。

「目前の一球にだけフォーカスするのは、結局それしか自分にコントロールできないと、みんなが分かっているからだ」とラウル・イバネスは語る。

「どんなに優れたスナイパーも標的を外すことはある。でも、優秀な射手はそこで次のターゲットのことしか考えないはずだよ」



「理想としていたものがここにあった…」

イチローはメジャーに来てから12年間、「プロはいかにあるべきか」、その答えを探し求めてきた。そして、それはヤンキースのクラブハウスの中で見つけることができた。

過去12年間のマリナーズ時代、イチローは「すごく孤独を感じる時間が多かった」と打ち明けている。しかし、ヤンキースは違った。皆が皆、「プロとしての姿勢」を暗黙裡に共有していたのである。



メジャー12年目の再出発。

「これまでの模索が無駄でなかったと分かっただけでも、収穫は大きかったのではなかろうか…」





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「アメリカに来て、理想としていたものがここにあると感じながらプレーしています」イチロー

2012年12月11日火曜日

[PR] GaGa MILANO(本田圭佑)





「みんなの分まで、オレが突き抜けたろうと思ってる」

サッカー日本代表・本田圭佑

「ここからは完全な個人技の時代になる」


渋き野獣「フェレール(テニス)」。生まれた時代が悪かった…


「地味な名プレーヤー」

それが「ダビド・フェレール(テニス)」。

「彼が今季最も活躍した選手の一人であることを知っているのは、よほどのテニス通だろう」

それでも今季、男子ツアーで最多の7大会に優勝しているのは、ほかならぬ彼なのである。



「生まれてきた時代が悪かったというべきなのか…」

フェレールの知名度がその実力よりも過小なのは、「男子プロテニス界の『ビッグ4』に頭を押さえつけられているから」に他ならない。「ビッグ4」というのは、ジョコビッチ(世界ランク1位)、フェデラー(同2位)、マリー(同3位)、ナダル(同4位)の錚々たる4選手のことである。



そのため、30歳のフェレールは「過去2年間のほとんどを世界ランク5位か6位で過ごしてきた(現在5位)」。

フェデラーに通算0勝14敗と、ビッグ4の壁は恐ろしく高い。今季の7度の優勝も「ビッグ4との直接対決」は一つもなかった。

フェレールにはグランドスラム大会(四大大会)での優勝経験もない。必ず、ビッグ4の壁に阻まれてしまうからだ(最高ベスト4)。



「サインを頼めば小さな字でチンマリと書き、英語の会見では小声でボソボソ話す」

普段のフェレールはそんな「地味な男」であるが、テニスコートの上では「小さな野獣」と化す。

「175cmの小兵ながら、噛み付きそうな勢いで相手に向かっていく」



そんな通好みのフェレールを「理想型」と称えるのは日本の「錦織圭(にしごり・けい)」選手(世界ランク19位)。

最終セットまでもつれた時のフェレールは恐ろしく強い。その勝率は過去1年間94%と堂々のツアー1位(今季も14勝1敗)。また、「最初からトップギアで戦える選手」でもあるフェレールは、第1セットを奪った試合のほとんどをものにしてしまう(68勝3敗・ツアー3位)。

最初の勢い、そしてツアー屈指の「しぶとさ」、これは「まさに通好みの渋い選手」だ。



しかし、このフェレールにロンドン五輪で打ち勝った錦織圭はスゴイ。

「人間界最強」とも言われるフェレールを破ってベスト8入りを果たした錦織。

ぜひ錦織選手には今後とも、フェレールの影をもっともっと薄いものにしていただきたい(笑)。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「今季最多の7大会優勝 地味でも凄い『小さな野獣』」

2012年12月10日月曜日

人のため、自分のために。松田丈志(競泳)


「康介さんを手ブラで帰すわけにはいかないね」

ロンドン五輪・競泳日本代表の「松田丈志(まつだ・たけし)」は、最終日のメドレーリレー前日の深夜、入江陵介にそう言った。

松田丈志、入江陵介、そして藤井拓郎は、最終日に「北島康介」とメドレーリレーを泳ぐことになっていた。



北島康介といえば「誰もが認める水泳界の伝説」だ。しかし、今回のオリンピックではまだメダルが一つもなかった。

前回(北京)、前々回(アテネ)と2大会連続の平泳ぎ2冠を達成した北島は、当然のように今回のロンドンでも金メダルを期待されていた。ところが、金どころかメダル自体を最終日まで獲ることができずにいた。



だからこそ、「康介さんを手ブラで帰らせるわけにはいかない」という想いが松田の口から出てきたのであった。

松田の知る北島は「最も強くて、最も輝いている」。尊敬もするし、感謝もする。「康介さんのようなスイマーになりたい」という想いで今まで競泳をやってきたのだ。

その北島にメダルがないなど、あり得ない。



何より、松田自身が「メダリストになれない惨めさ」を誰よりも痛感していた。

アテネ・オリンピックでメダルを獲れなかった松田は思い知っていた。メダリストか否かで「大会後の扱われ方」が雲泥の差となることを。

帰国した選手団はまず、空港でメダリストと「それ以外」に分けられる。そして、メダリストたちだけがリムジンバスに乗り込むことが許される。都内のホテルへと記者会見に臨むためだ。

メダリスト以外はといえば、その場で解散。各自が預けた荷物を受け取るとそれっきり…。



「メダリストにならずに帰国するあの惨めさを、まさか康介さんに味あわせる訳にはいかない…!」

松田は切にそう想っていた。



そして、最後の最後の最終日、北島と一緒に泳いだ松田・藤井・入江は「悲願のメダル」を手に入れることとなる(男子400mメドレーリレー・銀メダル)。それは日本競泳界にとってもメドレーリレー史上初のメダルともなった。

あまりにも興奮してしまった松田は、レース後のインタビューでつい口を滑らせてしまった。

「康介さんを手ブラで帰すわけにはいかなかった」と



このことは北島以外の3人の秘密のはずだった。

ところがが、喜びすぎた松田はつい言ってしまったのだ。



「ずるいよ、あれ」

レース後に北島は松田にそう言ったという。



北島が「ずるい」と言ったのは、どういう意味だったのか?

「オレのためだけじゃないだろ」という意味だったのか。

確かに200mバタフライで松田は「不本意な銅メダル」に終わっていた。狙っていた金メダルを逃しただけでなく、ずっと目標にしてきたアメリカのスーパースター、マイケル・フェルプスにも勝てなかった。ゴールは「手のひら一つの差」でしかなかった。



「どうして『もうひとかき』がかけなかったのか?」

松田は最後のタッチの瞬間を思い出しては、ベッドの中で悔しがるばかり。夜も眠れず、「もうプールに入りたくない」とすら思っていたという。

もし、最終日に北島とのメドレーリレーが控えていなかったら、「ぱたん」といってしまいそうだった。「康介さんのために」というのは本心ではあったのだが、それはギリギリで自分を支えるための「最後の理由」でもあった。

「メドレーがなかったら、荒れていたでしょうね」と松田は素直に認める。



結果的に、葛藤の渦に巻き込まれていた松田も北島もWinWinという最高の結果に終わった。

北島が「ずるい」と言ったとおり、松田ばかりを美化するわけにはいかない。

それでも、松田はこう語る。「メドレーで結果を出すことが自分のためだけだったら、僕はあんなに頑張ってなかったと思います。康介さんのために、と思えたから奮い立てたんです」。



いずれにしても、ロンドン五輪におけるメドレーリレーの銀メダルは、決して一人の力だけで成し得るものではなかった。

北島がいたから、松田がいたから、入江がいたから、藤井がいたからこそである。

「一人で戦っていると思うよりも、仲間と一緒に戦っていると思えたほうが、誰だって力を出し切れる」と松田は言う。



人のためでもあり、自分のためでもある。

4人が4人、救われたのだ。

そして、そんな4人の姿が日本中を感動させたのだ…!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「康介さんを手ブラで帰らせるわけにはいかない 松田丈志」

2012年12月9日日曜日

「金属の塊(メダル)」の先に見えたもの…。宮間あや(なでしこ)


「こんな金属の塊を取るために、何かバカだねぇ…」

オリンピック選手村の深夜、女子サッカーなでしこジャパンの主将「宮間あや」はそんな話をしていた。話の相手は日本に勝って金メダルをとったアメリカのMFトビン・ヒース選手。

お互いの金と銀を2人で見比べたりしながらの戯言(ざれごと)だった。決勝ピッチの上では死闘を演じた日米両チームであったが、それが終わった後、宮間とトビンは友達に戻っていた。

「こんな金属の塊を取るために、必死にやって、みんなケガとかしたりして…」



あのロンドン・オリンピックの夏、なでしこの主将という大任をまかされた宮間は、「結果がすべてだ」と勝手に思い込んでいた。

オリンピックでのメダル獲得は「至上命令」。宮間は「金も取れる」と明言して、なおさら自分を追い込んでいた。

その結果は「銀」。十分すぎるほどの成果ではあったが、宮間の心の中には「銀じゃダメなんだ…」という気持ちが依然として強く残っていた。



「こんな金属の塊を取るために、何かバカだねぇ…」

その気持ちは、それを争った者たちだけが感じる虚しさだったのかもしれない。金属の塊自体の価値は確かに限定的である。

しかし、そんな話をしているとボンヤリと見えてくるものもあった。「結局はメダルだけが目的なのではなく、実はその先にもっと大切な目的があったこと」を…。



「ありがとう!」

帰国するなでしこジャパンを空港で待ち構えていたファンたちは、惜しみなく宮間たちを称えた。

この時だった、宮間がようやくホッとするのは。「銀じゃダメなんだ」と思い込んでいた気持ちは氷解した。宮間はのちに「救われた思いがした」と語っている。



「オリンピックから帰国した時の、みなさんのあの温かい声だってそう。サッカーの本質は結果だけじゃないよなって今、すごく感じているんです」と宮間。

「もともとサッカーを通じて人に何かを感じてもらいたいと思っていたので、それを初めてできたのかもしれません」



「必死なときのなでしこって、珍プレーがでるんですよ(笑)」

たとえば準決勝のフランス戦、「キンちゃん(近賀)とか自分が必死でクリアしてるんですけど、全然ボールが飛んでなくて、アレレみたいな(笑)。それがなでしこのいいところでもあるんですけど」

決勝でアメリカに一点返したゴールは嬉しかった。「シノ(大野)が欲しいと思ったところにパスを出せた。あの瞬間、凄く嬉しかったのを覚えてますね。ずっと忘れないと思います」。



敗れた決勝戦では、試合が終わって泣き崩れた宮間。

「やっぱり悔しいというのが一番でしたけど、もっともっとやりたかった。そういう感覚がありました」



オリンピックの熱狂が去った今、岡山の長閑(のどか)な環境でサッカーに打ち込む宮間。

成長途中という彼女のチーム「岡山湯郷Belle」は勝ったり負けたり。それでも「次、がんばって!」と言ってくれるサポーターたちは常にいてくれる。

だからこそ、彼女はピッチに立ち続けられる。そして、「金属の塊」のために必死にもなれる。



きっと、なでしこの銀メダルは、宮間がファンたちに感じてもらいたかった「何か」以上のものを与えることができたはずである。

「私が、じゃなくて、なでしこが、ですよ」と宮間は笑う。

オリンピックの決勝戦では「終わった」と泣き崩れた宮間は今、まだ「終わっていない」ことを喜んでいるのかもしれない。彼女の求めるものは、金属の塊だけに留まるものではないことがハッキリしたのだから…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「宮間あや W杯で優勝した後からずっと怖かった」

2012年12月8日土曜日

負けることを厭わない勇気。「一流」とは?


「スポーツとは『敗北』と向き合うことである」

ごく一握りの幸運なアスリート以外、最後の最後まで勝利を手にし続けられる人はいない。

たとえその幸運なアスリートといえども、「いつか必ず『負ける時』が来る」。



「負けることを厭わない勇気」

一流と呼ばれるスポーツ選手は、必ずそれを持っている。「それゆえ、北島康介や浅田真央は『勝っても負けても、つねに一流のアスリート』なのである」。



それは応援する方にも求められる。

「期待していた選手たちが挫折する瞬間を目撃し、悲しみを分かち合う覚悟」が必要になる。

敗北の中ですら希望を失わないファン。彼らだけが「一流のファン」と呼べるのであり、「敗北に落胆するだけのファンは真のファンではない」。



「かつて惨敗し、挫折や修羅場を経験しながら、それでも明日を信じて前に進もうとしてきた選手たちがいる」

「自分から動いて、もがいて、ブチ当たる。それが『希望』だ」



敗北は希望を著しく損なう反面、それを大いに輝かせもする。

痛恨の敗北を喫した選手が渇望するのは決して「復讐(リベンジ)」ではないのだろう。きっと、「希望の再生」なのだ。

一流のアスリートに復讐や憎しみは似合わない。きっと彼らは負けるたびに「希望の芽」を大いに膨らませているのだ。そして、次に勝つ時、それは一流のファンを納得させる以上に、感涙させるものとなるのだろう…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「アスリートの言葉はなぜ人々の『希望』となるのか」

2012年12月7日金曜日

日本人初、ラグビー版メジャーリーガーの誕生。


この秋、日本ラグビー界に「歴史的な一歩」が刻まれた。

「田中史朗」と「堀江翔太」、それぞれがニュージーランド、オーストラリアへの移籍を果たした。

「世界最高峰リーグといわれる南半球のスーパー15で初めての日本人選手、いわば『ラグビー版メジャーリーガー』の誕生だ」



身長166cmと「小柄」な田中史朗は、「身体の小さな僕でもやれることを証明すれば、日本の若い選手も世界を目指してくれるはず」と、先陣を切る意気込みを語っている(NZハイランダーズへ移籍)。

一方、巨漢が居並ぶフォワード第一列のポジションを獲得した堀江翔太は、「日本人選手の能力を示すために、誰かがスーパー15に行かなきゃいけない」と強い責任感を口にする(オーストラリアのレベルズへ移籍)。

「2人には、世界への扉を開き、閉塞感に包まれた『日本ラグビーの殻』を破ろうという強い思いがあった」



この頼もしい2人の合流したラグビー日本代表による欧州遠征。「欧州で初となるアウェー戦勝利」を飾ることとなった。

「タフになった」。それがその勝利を見届けた者たちの感想だ。

「どんなに相手のアタックが継続しても、反則せずに身体を張って守り続ける『頑健なディフェンス』。相手がミスを犯せばすぐさま速攻に移り、一か八かのギャンブルでトライを取り急ぐことなく、『我慢強い攻撃』を継続する」

そんな試合ぶりには「攻守両面のディシプリン(規律)の高さ」が光っていたという。



エディ・ジョーンズ・ヘッドコーチは、グルジアを破った試合後に、こう言い放った。

「80分間戦い続けた最後の時間に、これだけアタックできるチームは世界中探したってないぞっ!」

後半ロスタイム、自陣のPKから10のラックを連取して、最後は劇的なサヨナラDG(ドロップゴール・3点)。

それは泥臭い勝利でもあった。

「観衆がどよめくロングパスも、魔法のようなオフロードパスもない。短いパスをつないではクラッシュ、当たって起きてを繰り返し、試合が終わる時にはフィットネスで完勝していた」





欧州遠征において、冒頭の2選手、田中史朗と堀江翔太はニュージーランド帰りのままに日本代表に合流し、欧州勢とのテストマッチに臨んでいた。

「大きくてパワフルな相手に一歩も引かない強さ。単調な仕事も堅実に遂行し続けるメンタルの強さ」

田中、堀江の2選手はジャパンを大いに支え、その勝利に大きく貢献したのだった。



ついに来季、日本人選手がラグビー王国へと旅立つことになる。

「次に世界へ出るのは誰だろう?」

野球、サッカーに続き、日本人の楽しみは今後ともに増えていきそうな気配である。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「ラグビー日本代表が欧州遠征で得た収穫」

[PR] イチロー選手のアイウェア(2012シグニチャー)





イチロー選手のトレードマークともなっている「OAKLEY(オークリー)」のアイウェア。1998年から14年間も愛用しているとのこと。

このシグニチャーモデル(特別限定)は、イチロー選手こだわりのフレーム(ブルーベース)に加え、10年以上にわたってお気に入りのレンズカラー(薄いグレー)となっている。

「細部までイチロー選手のリクエスト通りの仕上がりとなっている」

ちなみに、ヤンキースとしての新しい背番号である「31」、そして名前も刻印されている。