2012年9月12日水曜日

誤審とフェアプレー。ロンドン五輪に想う


残り、わずか一秒。

フェンシングの太田選手は、ドイツのエース・ヨピッヒ選手を一瞬で一突き。日本チームは、このたった一秒の一突きで、メダルへの道を辛うじて確保し、最終的には「銀メダル」という栄冠に輝く。

結果的には、劇的な逆転勝利となった日本vsドイツ戦。しかし、その勝利の判定はじつに際どいものであり、まさに薄氷の上を渡りきったようなものであった。





◎アピール


もともと、フェンシングのフルーレという競技は、ポイントの判定が難しい。というのも、「攻撃権」をどちらの選手が持っているの判定が微妙だからである。

攻撃権を持つのは、必ず一方の選手であり、先に攻撃を仕掛けた選手である。そして、この攻撃権を持った選手のみがポイントを獲得できる。一方、守りに回った選手が攻撃権を獲得するには、相手の剣を一旦払いのける必要がある。これは「一瞬」の出来事だ。時として審判が見逃すほどに。



残り一秒で同点に追いついた太田選手は、エクストラ(延長戦)1分に突入することとなるが、なんとこの最後の一分間の戦いで、映像判定が3回も行われることになる。

最初の映像判定は、両者の突きが「不十分」と判定された。そして次、ドイツのヨピッヒ選手のポイントに対する判定。太田選手は会場の大歓声に物怖じせず、冷静にヨピッヒ選手の「反則」をアピールした。結果は、太田選手のアピールが認められ、ヨピッヒ選手のポイントは取り消し。



「この時は、相手が攻撃してきたのを、僕が払いのけて突いたんですが、ヨピッヒがマスクを下げた『ヘッドダウン』の反則をアピールしました」と太田選手。

フェンシングの試合においては、選手とレフェリーとの「駆け引き」が重要であり、主張すべきところは主張しなければならない。この点、オリンピック3度目の太田選手は、海外での豊富な経験も手伝って、堂々と主張できたのであった。



◎レフェリーの味付け


そしてついに、最後の3回目、運命の判定である。

「僕たちフェンサーの肉眼から見ても、ヨピッヒ選手の勝ちに見えました」と太田選手。

その劣勢に加え、太田選手はヨピッヒ選手の「ネーム・バリュー」にも押されていた。彼は世界選手権で4度も優勝しており、たとえ太田選手が前回オリンピックで銀メダルを獲得していようとも、「名前負け」は避けられなかった。

「やはりフェンシングはヨーロッパのスポーツなので、レフェリーがヨーロッパ寄りになることも時としてあります。僕のネームバリューでは、相手に名前負けしてしまい、逆にポイントを取られる危険もあると思っていました」と、太田選手はその時のことを語る。



ところが、会場に流れたスローの映像を見た太田選手は確信した。「僕の勝ちだな」と。しかしそれでも安心はできない。「審判がどうポイントを取るかは、審判の『味付け』もある」のがフェンシング。

幸いにも、審判たちは太田選手に「味付け」してくれた。この瞬間、日本はメダルが確定し、日本フェンシング界の歴史は書き換えられた。史上初の団体メダル獲得が決まったのである。



「今回の審判は、僕の攻撃権を『好んでくれた』というのが、正直な感想です」

太田選手は、謙虚にその試合を振り返っていた。





◎誤審


幸か不幸か、スポーツの勝敗は審判のジャッジに委ねられている部分も大きい。そして、不幸なことには、今回のロンドン・オリンピックでは「誤審」も目立った。しかし、幸いなことに、誤審が覆って日本がメダルを獲得するシーンも何度か見られた。

競技によっては、フェンシングのように映像判定がルールに取り込まれているものもある一方で、たとえば、「柔道」などではそれがない。

それゆえ、柔道男子66kg級の海老沼選手は、あやうくメダルを逃すところであった。延長までもつれ込んだその試合は、結局、判定にまで持ち込まれた。そして、判定では審判3人全員が、対戦相手のチョ・ジュンホ選手に旗を上げた。



それを見た観衆は「大ブーイング」、そのヤジにたまりかねたのか、異例にも審判委員長が割って入り、「再審」を指示。ふたたび協議が行われた。

そして、上がった旗は…。3人とも海老沼選手。



日本選手が勝ったことは喜ばしいことではあるが、しかしなぜ、最初の判定は全員がチョ・ジュンホ選手で、最終的な判定が海老沼選手だったのか? モヤモヤとしたまま試合は終了した。

逆に考えれば、審判のジャッジによっては、海老沼選手の勝利が覆されていた可能性もあった。そして、もしそうなっていたら…、あの銅メダルはなかったのである。



◎「スリップだ」


ボクシングの清水聡選手は、もっともっと疑問だらけのまま試合をしていたはずだ。

バンダム級2回戦、清水聡vsアブドゥハミドフ(アゼルバイジャン)。アブドゥハミドフが何度も何度も倒れたにも関わらず、審判はダウンのカウントをとらなかった。



不穏な空気が流れはじめたのは、第2ラウンド。清水選手がフラついてもいないのに、スタンディング・ダウンを取られた時からだった。

確かに前半はアブドゥハミドフ選手の優勢だった。しかし、彼は最後の第3ラウンド、スタミナがすっかり底をついたようである。クリンチ(相手に抱きつく行為)を多用しながら、時間を稼ぐ。ずれていないヘッドギアのズレを訴えたりしながら…。

そんな小細工も虚しく、試合は完全に清水選手のペースとなり、ついにダウンを奪う。右手を高らかに上げる清水選手。しかしっ! なぜかレフェリーはダウンと認めない。「スリップだ」。



「おかしいだろ」とアピールする清水選手。残りは40秒。ポイントリードはまだ、アブドゥハミドフ選手だ。

それでも気を取り直して、試合続行。すでにグロッキーなアブドゥハミドフ選手に、清水選手のパンチはポコポコと当たり、再びダウン。しかしまたもや、「スリップだ」。これがなんと5~6回も続く。

場内も総ブーイング。もはやこれはオリンピックの試合ではない。どこかの八百長試合だ。



◎追放


試合の結果は、22ー17の判定でアブドゥハミドフ選手の勝利。ふたたび、場内にはブーイングの嵐。負けたはずの清水選手に大歓声と拍手が送られるという異様な光景になっていた。

この疑惑の判定が覆るのは後日、清水選手が国際アマチュアボクシング連盟に直訴してからであった。



オリンピックは最高の競技者が集う場でありながら、その審判は各大陸から召集されるために、必ずしも優秀な審判ばかりが集まるとは限らない。清水選手を裁いたレフェリー(トルクメニスタン人)には、「追放」という処分が下された。

のちにイギリスBBCが伝えたところによれば、アブドゥハミドフ選手は金メダル欲しさに、国際アマチュアボクシング協会に約6億8,000万円を贈っている。このカネは「団体への投資であり、メダル買収のためではない。全くのデタラメだ」と協会の代表は主張したものの、あの試合の後では、疑われるのも無理はない。

疑惑の2回戦を制した清水選手は、その後の準々決勝も勝ち上がり、見事に銅メダルを獲得している。オリンピックのボクシング男子におけるメダル獲得は、じつに44年ぶりの快挙であった。



◎ハンド


フェンシングの太田選手、柔道の海老原選手、そしてボクシングの清水選手らは、審判のカベを乗り越えて、メダルに手が届いた。そのほか、ハンマー投げの室伏選手、体操の内村選手なども、判定に泣かされかけたが、見事にメダルを獲得している。

その一方、日本人の多くを「悔しがらせた判定」もある。その一つはサッカー女子決勝、日本vsアメリカ戦でみられたアメリカ選手による「ハンド疑惑」である。



前半26分、キャプテン宮間選手がゴール前で蹴ったフリーキックは、どうしてもヒース選手の「左腕」に当たったように「見えた」。

ゴール前の間近でそれを見ていた澤選手や川澄選手らは、一斉に手を挙げて相手のファール(ハンド)をアピール。ベンチの佐々木監督も自分の手を叩いて、同じようにアピール。

リプレイを見ても、ヒース選手は飛んでくるボールに向かって、先に腕を出しているように「見えた」。もし故意に手を出したのならば、明らかなハンドの「反則」である。そして、それはペナルティー・エリア内であったため、反則が認められれば、日本にPKが与えられ、最高の得点チャンスになるところであった。



ところが、主審のドイツ人(シュタインハウス)は笛を吹かなかった。「ハンドなし」の判定である。

この判定には、のちに同じドイツの全国紙(ウェルト)が批判を投げかけている。その見出しは「シュタインハウス、決勝での失敗」である。その記事においては、「PKが与えられなかったせいで、日本は銀以上のメダルは取れなかった」と報じていた。同紙は自国出身の主審に対して、「明らか誤審」と断言したのである。

また、同じドイツのディ・ヴェルト紙も、「日米戦でのジャッジは素晴らしかった。『あれ』を反則だと判定していたら」と皮肉っている。



◎世界最高の審判


この試合で日本に勝利して金メダルを獲得したアメリカも、やはり、この判定を皮肉った。

「もっとも重要なプレーとなったのは、ヒース選手のハンドだった」と報じたのはUSAトゥデー。「この『まぎれもないファール』で、反則をとられていたら、日本にはPKが与えられていて、同点に追いつかれていたかもしれない」と記している。



同様に、「アメリカ・チームは実にラッキーだった」とNYデイリー・ニュースは伝えた。「主審は反則だとハッキリ分かる位置にいたにも関わらず、笛を吹かなかった」。

主審のシュタインハウス氏は、並みの審判ではない。昨年の女子サッカー・ワールドカップ決勝で笛を握っていたのも彼女であり、オリンピック前にも「世界最高の審判」と仲間内から高く評価されていたのである。間違っても、トルクメニスタンの審判ではないのである。





◎日本のフェアプレー


結局、日本は1対2でアメリカに敗れることになる。

試合後の会見、記者から「疑惑のハンド」について質問された佐々木監督は、「何のことでしたっけ」とトボケてみせた後で、「私は主審の判定を『尊重』します」と堂々と返答した。この下りは、USAトゥデー紙にも取り上げられ、改めて日本の「フェア・プレー精神」が世界に示された。



ご存じの通り、なでしこジャパンは予選リーグ・南アフリカ戦においての「引き分け狙い」が、フェアプレー精神に欠ける、と痛烈に批判されていた。

しかし、決勝戦での堂々たる戦いぶり、そして敗戦後の毅然とした「審判の判定を尊重します」という佐々木監督の言葉は、日本の精神を世界に示すものであったのだ。



思えば、44年前のメキシコ・オリンピック、この時、男子サッカー・チームは銅メダルという栄光に輝くとともに、「フェアプレー賞」の栄冠も授かっている。つまり、サッカーの実力もさることながら、その「ファール(反則)」の少なさが世界に高く評価されたのである。

サッカーの試合における「引き分け狙い」というのはサッカーでは多用される戦術の一つであり、「アウェイで引き分けを狙い、勝ち点1で良し」というのは立派な戦略であり、必ずしもフェア・プレー精神の欠如とは断言できない。

むしろ、わざと倒れ込んで相手からファールをもらったり、痛くもないのに大げさに痛がったりするようなプレーのほうが、よほどに見苦しく、フェアプレー精神に欠けると言われても反論できない。



◎イギリスのフェアプレー


そもそも、オリンピックの開催地となったイギリスは、世界でもフェアプレーを重んじる国の一つである。

イギリスのサッカーなどを見ていても、奇妙な光景を目にすることがある。試合中に何の抵抗もなく、ゴールにボールを蹴り込んだりするシーンがそれだ。その1点は、相手のフェアプレーを讃えるものであったりするのである。



たとえば、ある試合で敵のゴールキーパーが心臓発作で突然倒れた。当然、ゴールはガラ空き、シュートは必ず決まる。しかし、相手方はこの状況が「フェアでない」と判断し、試合の中止を要請する。得点でリードしていたにも関わらず。

後日、両チームはふたたび仕切り直すことになるのだが、前回、キーパーを失ったチームは、相手のフェアプレーに敬意を表して、試合開始直後、無抵抗で相手のチームに1点を献上していた。



イギリスだけに限らず、こうしたフェアプレー精神はヨーロッパのサッカーで、たまに見かける。

ゴールキーパーが倒れてしまったような状況では、ゴールを決める価値がないと判断するのか、目の前のボールをわざと手でつかんでプレーを切ったり、あえて明後日の方向に蹴っぽって、わざとシュートを外したり…。また、審判がファールだからPKを蹴れと言っているのに、「俺はファールされていない」と主張して、あえてPKを蹴らなかったり…。

ある試合では、相手方にボールを返そうと思って蹴ったら、たまたまゴールに入ってしまった。これはフェアではないと思い、やはり無抵抗で相手にボールを蹴らせて、1点を献上したりもしている。





◎気高き精神


「戦うには、それに応じた価値があって然るべきである」と彼らは考えているのであろうか。キーパーが倒れているのにシュートを決めても、そのゴールには何の価値もない、真っ向勝負だからこそ、決める価値があるのだ、と言わんばかりに。

そうした気高き精神をもつ選手たちは、容易には審判のジャッジに左右されない。ファール(反則)を受けていないと主張する選手は、それを態度で示し、わざとシュートを決めなかったりするのである。



その一方で、審判が下した判定が自分の不利になったりするシーンでは、決して文句を言わない。佐々木監督が「何のことでしたっけ?」とトボケたように。

イギリス同様、フェアプレー精神をもつ選手が多い日本が審判に「抗議」する時は、よほどの時である。誰がどう見ても、おかしい時にだけ、その抗議は行われているようである。その証拠に、抗議した判定の多くは覆り、それがメダルにまで結びついている。



◎イレギュラー


審判のジャッジがおかしいのは、ベテラン選手にとっては「折り込み済み」でもあったりする。なにせ審判も人間だ。しかも選手同様、大舞台で舞い上がっていたりするかもしれない。それが世界最高の審判だとしても。

たとえば、男子ハンマー投げの室伏選手は、その一投目をまさかの「ファール」、制限時間オーバーと判定され、無効となった。

のちに室伏選手が語ったところによれば、その時の制限時間開始のタイミングは「曖昧なまま」だった。というのも、通常は選手の名前が呼ばれた時に時間が動き始めるのだが、その時は途中に他種目の表彰式が入り、そのタイミングがウヤムヤになってしまったというのだ。



こうして、好感触だった1投目は「記録なし」とされた室伏選手。しかも少々不服な状況下で。

2投目とて万全の状況ではない。前の選手のアクシデントにより、15分以上競技が中断してしまい、集中力が途切れがちな状況であった。最後の6投目などは、ウサイン・ボルト氏の100m、オリンピック二連覇の大歓声の中で投げなければならなかった。



あいまいな審判のみならず、幾多の悪い条件も重なったにも関わらず、オリンピック4度目のベテラン、室伏選手に動じた気配は見られなかった。

「イレギュラーなことが起こるのがオリンピックであり、ハンマー投げの宿命です」と、彼は達観していたのである。

事実、彼はこうした厳しい状況下で銅メダルという成績を残している。その記録は78m71という、自身の目指した80mには届かなかったものの、室伏選手は「満足です」と言い切った。





◎戦いの意義


審判とは何か? フェアプレーとは何か?

そして、戦う意義はどこにあるのか?



「結果が全てではない」というのは、皆承知してはいるものの、どうしてもそこだけにこだわってしまうのもまた、現実である。

オリンピックという舞台は、何年も何十年も努力を重ねてきた選手たちにとっては、まさに「一瞬」。そして、そこに残るのは結果だけであり、それは気まぐれなジャッジに左右されることすらある。

「他人がどう思うのか」と考えるのも大切なことではあるが、そればかりに固執してしまえば、自身の想いは損なわれてしまうこともある。時として、選手はメダルを逃しても、フェアプレーを貫きたいと願うかもしれない。



何のために、練習してきたのか。

スポーツの価値がメダルのみに集約されるのであれば、99.9999%の選手の練習は無駄となる。メダルの数は、一つの種目につき世界でたった3つしかないのだから。



◎対抗戦思想


きっとイギリス人は、そんなことを考え続けてきたのであろう。彼らの思想の根底には「対抗戦思想」というものがあり、彼らは「1対1」で決着をつけることを好むのだ。かつての騎士たちがそうしたように。

それゆえ、たとえ自分が勝ったとしても、納得のいかない環境での勝ちは、勝ちと考えない。相手が馬から落ちても、ドドメを刺さず、逆に手を貸して馬に乗せようとするのである。それは、日本の武士とて同じだったかもしれない。

ゴールを目前にして、あえてシュートを外すのはなぜか。それはこんな歴史に答えがあるのかもしれない。



この「対抗戦思想」というのが強く現れた競技の一つが、「ラグビー」である。

勝つことは大事なことではあるが、より問題となるのは、誰に勝つかである。明らかに弱い相手から勝っても何の意味もない。「然るべき相手」とガチンコで勝負してこそ、その勝ちに意味があると、ラガーマンたちは考える。

そうしたイギリスの伝統は、日本のラグビーにも受け継がれている。「早慶戦」、「早明戦」などは、「対戦するのにふさわしい相手」、「敬意を感じる相手」と対戦したいという対抗戦思想の現れだと言われている。

そして、その戦いが終わるや、「ノーサイド」。敵も味方もなくなり、お互いが相手の強さを讃え合うのである。



◎伝わる気持ち


今回のオリンピックにおいて、見ていて気持ちの良い試合もあれば、後味の悪い試合もあった。

スポーツの観戦者というのは、その多くが素人にも関わらず、そうした「試合に対する好悪」は、不思議と皆一致するものだ。それは、戦う選手たちの気持ちが、ルールも分からぬ観戦者にもダイレクトに伝わってくるからであろう。

結局、我々はその競技を見ているようで、戦う選手たちの「心」を見ているのかもしれない。そして、その勝ち負けよりも、その「戦いぶり」を見ているのかもしれない。



なでしこジャパンが「引き分け狙い」の戦いをした時、やはり選手たちも動揺したままに戦ったという。それゆえ、見ていた我々も腑に落ちぬものを感じたのであろう。

一方のアメリカとの決勝戦は、負けたとはいえ、戦うなでしこたちの姿に、みな惜しみない賞賛を贈った。それは同情とはまた別の次元で。結果は負けであったが、それぐらいになでしこはこの試合で「気持ちの良い戦いぶり」を見せたのである。



◎ニッポン


そのなでしこたちの気持ちを感じたのは、同胞の日本人ばかりではなかった。

「パパ、『ニッポン』ってどういう意味?」

イギリス人と思しき小さな少女は、幼い声でパパに訊ねた。なぜなら、会場には「ニッポン! ニッポン! ニッポン!」の大コールが鳴り響いていたからだ。

「ああ、それは『ジャパン』のことだよ」とパパ。

なるほど、ニッポンとはジャパンのことだったのか。どうやら少女はジャパンという意味は知っていたらしい。そう知るや、その少女も大声で「ニッポン! ニッポン!」と声を限りになでしこたちの応援を始めていた。



試合終了後、アメリカを応援していた米国人ですら、観客席に向かって深々と頭を下げるなでしこたちに、「手もちぎれんばかりの拍手」を送っていた。

「あの日、日本人による、日本人のためでしかなかった日本のサッカーは、史上初めて『世界から愛される存在』となった」と、あるスポーツ記者は記している。





◎すべてを超えて…


世界が愛したのは、明らかに金メダルではなかった。なでしこジャパンという日本人であった。

それは、彼女たちの真っ直ぐな気持ちが、国境と言葉を超えて世界に伝わったからでもあろう。もちろん、審判の誤審も超えて…。

ブレない選手たちにとっては、たとえ審判が誤審をしたとしても、それは自身の精神を体現する妨げにはならないのかもしれない。むしろ、それは絶好のチャンスともなりうるのだから。



なぜ戦うのか?

それは勝つためなのか?



この問いに答えはないのかもしれない。

それでも、我々はオリンピックの名場面のなかに、その答えを垣間見たような気持ちになれた。

そして、なぜフェアプレーにこだわるのかという意味も、ボンヤリと分かるような気になった。



「千日の稽古をもって『鍛』となし、万日の稽古をもって『錬』となす」

これは剣豪・宮本武蔵の言葉である。「鍛錬」とはそれほどのものなのである。そうした鍛錬の中にこそ、本当の答えは隠されているのかもしれない。

そして、それを体得した選手たちは、自ずから「礼」となり、これを他国はフェアプレーと呼ぶのだろう。

もし、こうした選手ばかりであれば、そもそも審判は不要なのかもしれないが…。







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参考・出典:
Number ロンドン五輪特別編集「終わらない物語」

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