2012年9月6日木曜日

深淵なる「身体能力」の可能性。古武術の達人に聞く。


「重いものを軽く持つ」とは、どういうことか?

これは禅問答ではない。文字通りの意味とのことである。



「現代の人は重いものを重く感じて持つ。しかし、昔の人は出来るだけ軽く持とうとした。」

こう語るのは、古武術の達人・甲野善紀氏である。






彼の手にかかれば、柔道家・吉田秀彦氏の100kgを超える巨体も軽々とひっくり返ってしまう。甲野氏は筋肉ムキムキではない。じつにホッソリとしており、体重は60kgもない。

柔道では寝技をかけられないようにするために、身体を丸めて「亀」になる。その態勢になれば、もう安心。相手は諦めるしかない。ところが、甲野氏はその不動の態勢を、一瞬でひっくり返してしまうのだ。

これには、長年柔道に励み、バルセロナで金メダルまで獲得した吉田氏も、「こんなこと出来る人は他に知らない」と汗ビッショリだ。たった今、小柄な老人にアッサリとひっくり返されたばかりである。必死で抵抗していたにも関わらず…。




そのコツはと聞けば、「全身を使おうとすること」だという。腕のみで持ち上げようとすれば、自分は下に残る。しかし、全身を使おうとすれば、自分も一緒に上へ上がる。

その証拠に、甲野氏が相手を持ち上げる時、足の裏にかかる体重は増えるどころか、減っているのである。これには科学者もア然とする。「常識では考えられない。」



甲野氏は「反動」を使わない。たとえば、普通、上に飛び上がろうとすれば、飛ぶ前に一旦下に沈み込むだろう。ところが、甲野氏は下へ沈まず、そのまま上へ行く。「地を蹴る」という動作は無駄なのだそうだ。その無駄な動きは、相手に動きを読まれる余計な動きでしかない。

巨漢を持ち上げる時も然り。下に踏ん張って持ち上げるのではなく、動かす方向(上)へと自分も一緒に動いてゆくだけである。普通の人は下、そして上へと2段階で動くのに対して、甲野氏はワン・アクションである。反対の力(反動)に頼らずに、ストレートに目的の方向へと動く。



また、甲野氏は「テコの原理」も使わない。普通、動かせないモノを動かそうとすれば、真っ先にテコの原理を思いつく。しかし、テコの原理とは、支点となる部分を固定しなければならないため、どうしても「小手先」の動きにしかならない。甲野氏の動きは、身体のどの部分をも固定することなく、全身を連動して動かすことで最大の力を発揮するのである。

身体は余すところなく使う。指一本の力の向きとて、軽んずることはできない。手の平が上を向いているか、下を向いているかで、発揮できる力は大きく違ってくる。身体の動きを考える時、「部分的な動き」というのは考えられないのだという。必ず、同時並行的に連動して身体は動くのである。



「世間はIT、スマートフォンなどとハイテクが進んでいるようだが、身体の使い方に関しては石器時代に等しい。昔の人々のほうが、よっぽどハイテクだった。」そう甲野氏は語る。

確かに、今の世の中は便利になりすぎて、身体を使う機会はメッキリ減ってしまった。外側の世界が進化していくにつれて、身体の世界はドンドンと退化してしまっている。「人類何千年の歴史で、はじめて伝承が途絶えようとしている。」と甲野氏。身体の技は教えられるものではない。書き記すこともできない。ただ、身体で覚えるしかないのである。

今、やろうとしていること何か?と甲野氏に尋ねれば、「先を読もうとする気持ちを、如何になくすか。」と答える。先を読もうとすれば、今を見失う。真剣の勝負は一瞬で決するのである。



江戸時代の武術家・松林左馬助には、こんな逸話が残る。

夏の夜にホタルを楽しみながら水辺を歩いていた時のこと。不意に背後から川へと突き飛ばされる。ところが、突き飛ばされた左馬助、突き飛ばされたなりに川を飛び越えてしまった。そして、その手を見れば、突き飛ばした相手の刀がシッカリと握られていたという。

肉体と精神が完全に一致しており、心のままに身体が動く。突然の出来事であろうが、動じることもなく、ただ応じるのみ。昔の達人は、信じ難いほどに身体が軽やかに動いていたようだ。まさにハイテク。



現代人はよっぼど鈍重である。

動きたい方向とは反対に力の使い(反動)、身体を固定して部分的に動かし(テコの原理)、知りようもない先を知ろうとする。我々が常識的に考えている身体の使い方は、昔の人々から見れば、じつに稚拙で無駄だらけなのかもしれない。

身体は劣るといえども、脳ミソは進化しただろう。そう思っている人もいる。はたして、そうだろうか? 脳ミソというのは、身体の各部につながっているわけだから、身体の動きが悪くなれば、それに対応する脳ミソの働きが衰えていることも考えられる。やはり、身体と同じように脳ミソも、反対のことを考え、何かに囚われながら部分的に働いているのかもしれない。今を疎(おろそ)かにして、偏屈になっているのでは。

身体のこと、脳ミソのこと、我々は知っているようで何も知らない。使っているようで、全然使えていない。科学技術がどれほど進化しようとも、それらは所詮「他人事」である。その神輿に担がれているばかりでは、「進んだ気」になるだけなのだろう。周りの風景は変わりゆくといえども、ただそれだけの話である。やはり、自分の足で歩を進めなければ、何も変えられないのかもしれない。



甲野氏は、うずくまる巨漢を持ち上げるとき、最初に使うのは「自分の体重」なのだそうだ(「力」とは彼は言わなかった)。少しでも巨漢が動き出したその後は、起きた流れに任せるのみ。

「重いものを軽く持つ」

その先には、我々の忘れてしまっている「何か大切なもの」があるような気がしてならない。

その何かは、自分の身体がすでに知っていることなのかもしれないが…。








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出典:爆問学問 古武術でカラダ革命

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