2012年11月1日木曜日

Jリーグの20年。世界に認められはじめた日本サッカー



今から25年前、のちにブラジルから日本に帰化することとなる呂比須ワグナーは、日本のサッカーを「子どもの遊びのようなサッカー」と評した(1987)。

また、ドイツから帰国した奥寺康彦も同じ頃、日本のサッカーは「堅い殻に閉じこもっている」と感じていた(1986)。



こうした状況を何とか打破しようとしたのが川淵三郎。元日本代表であり、日本代表の監督経験もあった男だ。

1989年、川淵はJFAプロリーグ委員会の委員長に就任。ドイツで見た「地域社会中心のサッカー」を日本に再現するチャンスに恵まれた。

「せめて、スポーツチームくらいは企業名でなく、『地元の名前』を持つべきだ」

川淵はJリーグのチームを地域に深く根付かせるため、クラブ名に必ず地元の名前を入れることに加え、地元に照明設備付きのスタジオを持つこと(収容人数1万5000)、地元の子どものためのジュニアチームを持つことを義務付けた。



Jリーグのスタートはバブルの後押しもあって、実に順風満帆であった。

しかし、そのバブルは弾けた。潮が引くように興奮は冷めてしまい、「このままでは失敗に終わるのではないか」とまで懸念された。



この劣勢の中で川淵が打ち出したのが「Jリーグ100年計画」。

フランスのシステムに倣ったJFAトレーニングセンターが日本中に設立され、有望な若い選手を特別なトレーニング施設で育成できるシステムを整えた。

このコーチ体制は世界でも高く評価されており、「独自のコーチングコースによるコーチ育成を認められているのは、アジアでは日本とオーストラリアの2カ国だけ」である。



そして、今年のロンドン・オリンピックでは「男女ともに準決勝進出を決めた唯一の国となった」。

現在、「日本人サッカー選手は、世界中で100人近くが活躍している。そして、その多くはトップレベルの選手だ」。

昨年のJリーグの観客動員数は「平均で1万6,000人」。これは世界で第9位の高水準である。



Jリーグのスタートから、わずか20年。

紆余曲折はあれど、日本のサッカーは確実に前進している。

JFAが2005年に宣言したのは、「日本が2050年までに再度ワールドカップの開催国となり、そこで優勝する」ことである。



この日本の宣言を聞いたFIFAの有力者の一人、ヨルダンのアリ・ビン・アル・フセイン王子は、こう言った。

「心配することはありません。日本は40年も待たずに、ワールドカップで優勝するでしょう」





ソース:The rise and rise of Japanese football

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