2013年1月31日木曜日

「サッカー界の小僧でいよう」。なでしこ監督・佐々木則夫の覚悟


「人生というのは、あなたの思い通りにならないようにセッティングされています。それをどう克服するのか」

この一文に目が触れた時、なでしこジャパンの監督「佐々木則夫(ささき・のりお)」氏は目が覚めた。



「自分は目の前の出来事から逃げようとしていたのかもしれない…」

そう思い至った佐々木監督の胸には、ふたたび闘志が沸き上がってきていた。



そして、次の一文によって、監督続投への肚(はら)は決まる。

「もし、この体に限界がないなら、今の心のまま永遠に行が続いてほしい。人生生涯、小僧でありたい」

そうだ、自分も「サッカー界の小僧でいよう」、佐々木監督はそう決意していた。






このエピソードは、女子サッカーなでしこジャパンの佐々木監督がテレビで語ったものである(テレビ東京・ワールドビジネスサテライト、スミスの本棚)。

佐々木監督がお気に入りの一冊として紹介したのは、塩沼亮潤氏の「人生生涯小僧のこころ」。

塩沼亮潤・大阿闍梨は、およそ9年間(1,000日)にわたって往復48km、高低差1,300mの山道を毎日16時間かけて歩き続ける荒行を満行した人物。そして本書は、その体験記である。



この本を読んだ時の佐々木監督は、なでしこジャパンをロンドン五輪の銀メダルに導いた直後であり、それと同時に契約期間満了を迎えた時のことだった。

「退任か、続投か?」

彼の心はその間で揺れ動いていた。



本書に描かれた、小僧の心のままに行に徹するという大阿闍梨の覚悟。

その覚悟に触れた佐々木監督の胸には、「初めて代表監督を引き受けた時と同じ熱いもの」が再燃してきたという。

そして、それが続投という次の一歩を佐々木監督に踏み出させたのであった。



「永遠に行が続いてほしい」

生命の限界を試される荒行の渦中にあってなお、塩沼亮潤・大阿闍梨はそう思っていた。

そして佐々木監督もまた、修行に身を投じるがごとく、覚悟を決めたのであった…!






ソース:致知2013年2月号
「なでしこジャパン監督、佐々木則夫氏の決断を支えた一冊」


2013年1月30日水曜日

出産・育児とオリンピック。岡崎朋美(スピードスケート)



「これはソチに間に合う!」

妊娠が分かった瞬間、スピードスケートの「岡崎朋美(おかざき・ともみ)」はそう喜んだ。

「妊娠に2年以上かかっていたら、ソチ五輪は諦めていたかもしれないので、本当にありがたいタイミングでした」と岡崎は微笑む。



長野オリンピックで銅メダルに輝いた岡崎は、22歳で出たリレハンメル(1994)を皮切りに、今まで5度のオリンピック出場を果たしている。

前回のバンクーバー五輪の時の岡崎は、すでに39歳。さすがに「これで最後なんだ」と思っていた。そのバンクーバーは、その前のトリノでわずか100分の5秒差で逃したメダルの「リベンジ」を期した戦いでもあった。



「ところが、バンクーバーは不本意な成績で…」と岡崎はうつむく。

バンクーバーでの成績はリベンジどころか、500m16位、1,000m34位と、到底納得のいくものではなく、自身最悪の結果に終わってしまっていた…。

「本当に悔いの残るレースでした。力を余してのフィニッシュだったので、歯がゆくてしょうがなかったです…」と岡崎。



沈む岡崎を鼓舞したのは、18歳から入社している富士急の社長。

「次はソチ五輪だ!」と社長は岡崎を励ました。

当然、苦杯をなめた岡崎にも異論はなかった。ただ、年齢的に岡崎はまず「子ども」が欲しかった。「結婚した当初から、一人は子どもが欲しいねという話を主人としていました」と岡崎。



バンクーバー五輪後は、岡崎にとって激動の日々ではあったが、事はトントン拍子に運んでいき、2010年12月23日、めでたく娘の「杏珠(あんじゅ)ちゃん」が生まれた。

そして出産を終えた岡崎は今、自身6度目のオリンピックとなる来年のソチを射程に収めている。



スケート界で誰も成し遂げたことのない「母として臨むオリンピック」

「出産して五輪に出るという『誰も成し遂げていないこと』に挑戦したいという気持ちが強いのです」と岡崎は語る。



しかし、出産後の練習再開は大変だった。

「もう、最初は体がプヨプヨでしたね(笑)」と岡崎。

スケート選手として必要な筋力はほとんどなくなっており、58cmを誇った自慢の太ももも54cmまで細くなっていた。さらにはトレーニングと授乳の同時進行で激ヤセ。みるみる頬がこけていった。



しばらくして母乳をやめると、今度は激太り。54kgだった体重があっという間に64kgに。さらに悪いことには、以前は柔軟だった関節までがカチカチに。

「一番驚いたのは、足首がモノ凄く硬くなっていたことです。全然曲がらなかったので、これはマズイと思い、ストレッチを根気強くやりました」と岡崎。



大会に出るのも大変だ。

「北海道の大会なら、私の母にホテルに来てもらい、本州での大会なら、大阪に住んでいる義母に来てもらいます」と岡崎。

「娘はまだ2才児ですが、よくしゃべるんですよ。北海道にずっといると北海道弁をしゃべるようになるし、大阪の母と一緒なら大阪弁」。そう語る岡崎はじつに前向きだ。

「でも、海外の大会に出る時は一緒に連れていけないので、そこは娘にとっても私にとっても試練ですね」



現在、岡崎朋美は41歳。ソチ五輪の頃には42歳になっている。子どもがいるいないに関わらず、年齢そのものも大きな壁となる。

それでも岡崎は力強くこう語る、「年はとっているけど、気持ちの年齢は止まっていて、昔のままです(笑)」。

23年間にわたって富士急スケート部で岡崎を指導し続けている長田顧問も、こう語る、「岡崎を見ていると、子どもを生む前の真っ白な気持ちのまま、クリアな気持ちのまま、練習していますよ。そういう意味では、今も昔も変わらない」。



「子育てしながらの練習や試合は大変だと思いますが、愚痴は絶対に言いません」

夫の安武宏倫さんは、いつも明るく前向きな妻を誇りに思っている。「スケート選手としても、母親としても本当によくやっていると思いますよ。なかなか真似できる人はいないんじゃないでしょうか」。



「あのとき、神様は『まだやめるな』と言ってくれていたのかもしれません」。バンクーバーの屈辱を、今の岡崎は前向きにとらえている。

5度のオリンピックを経験してきた岡崎の身体には、それを経験してきた者だけがもつ「貫禄」が漂っており、その全身からはアスリートとしてのオーラが放たれている。

「氷の上に乗った瞬間から、いやが上にも見るものの目を引き寄せる」

彼女のレーシングスーツの左腕には「Anju」の文字。愛娘・杏珠の名が刻まれた勝負服だ。



彼女のホーム・リンクは大型遊園地・富士急ハイランドから道路一本を隔てた場所にある。

神々しくそびえ立つ富士山に見下された富士急スケート部のリンクは、遊園地の絶叫と歓声からは一転、静けさに包まれている。

練習の始まりと終わりに、岡崎はそのリンクに必ず一礼をする。それは18歳で入社して23年間、一切変わらぬ姿でもある。



「自分にはどれくらいの可能性があるのだろうと、純粋にそれを知りたいと思って」

富士急に入社したばかりの18歳の岡崎は、インターハイの最高順位が4位と、決して目立つような選手ではなかった。「高校の頃の私は、スケートが本当に下手でした」と岡崎。

18歳の頃の純粋さ、そして透明感は、すっかりベテランとなった今の岡崎にも変わることがない。



ただ、今の彼女のかたわらには夫がおり、なによりも杏珠ちゃんがいる。

長野オリンピックでつかんだメダルから15年、母になった岡崎朋美に迷いはない。その道はソチへの一直線。

「ママが観客席とは違う場所にいるということを(娘に)味わわせてあげたい。ママがリンクから手を振っている姿を見せてあげたいんです」

そう言って微笑む彼女の笑顔もまた、変わるところがない。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/7号 [雑誌]
「ソチのリンクから娘に手を振りたい 岡崎朋美」

2013年1月29日火曜日

「もう一度滑りたい!」。まっさらな新鮮さに戻った上村愛子(モーグル)



彼女が初めてオリンピックに出たのは、まだ高校3年生のときだった。

女子モーグルスキーの「上村愛子(うえむら・あいこ)」は、そのときに出た長野オリンピック(1998)で見事「7位」という好成績を収める。

上村はその後のオリンピックにも毎回出場。2002年のソルトレイクでは「6位」、2006年のトリノでは「5位」と、着実に一つずつ順位を上げていった。



「必ず、メダルを!」

2010年、自身4度目となるバンクーバー五輪は、上村愛子にとっての集大成となるはずだった。

その準備も万端。'07-'08シーズンのワールドカップで上村は「年間総合女王」に輝き、続く'08-'09シーズンの世界選手権では「2冠」を達成していたのだ。







しかし…、バンクーバーの結果は「4位」…。

前回のオリンピックから順位は一つ上げたものの、メダルまではいま一歩であった…。



4度のチャレンジでもメダルに届かなかった上村。その目からは止め処なく涙がこぼれ落ちていた。

「もう、いいかな…」

試合後の上村は、弱り切っていた。

「十数年続けることって、タフですよね…」

そうつぶやく彼女の頭には「引退」の影がよぎりつつあった。



たいがいのスポーツ選手がオリンピックを「競技人生の区切り」にする。次のオリンピックまでの4年間を「タフ」に乗り切るには、相当に強靭な精神力が求められるのだ。

その自信を失っていた上村は、バンクーバー五輪後、ひとまず休養をとって、競技から離れる決断を下す。

「周りの人たちもガッカリさせてしまっていると感じて…」と上村。それが何よりも辛かった。



上村がスキーから距離をおいて3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、やがて一年になろうとしていた。

その間、上村は「引退する理由」を探し続けていた。

しかし、いくら時間をかけても、スキーを辞める理由は見つからない。むしろ、スキーから離れていればいるほど、「もう一度滑りたい!」という、引退とは真逆の思いがフツフツと沸き上がってくるばかりであった。







競技から離れて丸々1シーズン。

ついに上村は「復帰」を発表(2011年4月)。

「やっぱり、自分はスキーをすることで人を喜ばせることができるんじゃないか、と考えました」と上村は、その決意を新たにする。



長期ブランクのため、再スタートはワールドカップより下のカテゴリーからの出発となったが、北米の大会で2位を2回記録するや、上村はすぐさまワールドカップの日本代表に復帰。

そして迎えた昨年(2012)2月の苗場ワールドカップ。この大会で上村はモーグル7位、デュアルモーグル2位という完全復活を果たす。

この好成績に「びっくりした」と上村。長期ブランクの不安、そして練習再開から開幕までの短さ、さらには体力不足、それらの不安は苗場の好成績がすべて拭い去ってくれた。



「長い間かけて身につけてきたことは、忘れないんだな…」

上村はしみじみとそう感じていた。そして同時に「負けたくない」という気持ちも再燃してくる。

「ソチ五輪を目指します!」

復帰直後はメダルを狙うとは言えなかった上村も、昨季の復調を受けた上村はオリンピックへの意欲を明言した。

「(苗場で)ひとつ壁を越えました」と上村。



5度目のオリンピック。

そして悲願のメダル。

それらへ向けた今シーズンの上村は好調だ。フィンランドのルカで行われた開幕戦のデュアルモーグルでは再び3位と表彰台に上がっている。



「Aiko Uemura」

この名がふたたび、モーグル競技のジャッジ(採点員)たちに強い印象を思い起こさせている。

採点競技には、どこか「印象」が採点につきまとう。そのため、実績のある選手ほど点数が出やすい。この点、長期のブランクをへてなお、「Aiko Uemura」の名は健在であったのだ。



「ソチでメダルを」

その想いは、2009年に結婚した夫「皆川賢太郎」とも共有している。彼はアルペンスキー日本代表の選手であり、上村同様、長野からバンクーバーまで4度のオリンピックに出場し、現在、ソチ五輪を目指している。

夫・皆川は、上村の現役復帰を喜んだ。上村が競技を再開すれば、夫婦の「スレ違いの時間」は長くなってしまう。それでも皆川は、彼女がスキーに戻ることを歓迎したのだ。



スキーに戻った上村、「自分にワクワクする部分が見つけられました」と今季開幕前に口にしていた。

「気持ちは16歳の時のようです」

高校3年生の冬、初めて出場した長野オリンピック。その時の「まっさらな新鮮さ」に現在34歳の上村愛子は立ち返っている。



「5回目のチャレンジで、自分の等身大のままというか、まっすぐ気持ちの向くまま一生懸命やりたい、そんな気持ちになっています」と上村は、現在の心境を語る。

「いちばん素直な自分」

上村にとって、それはスキーをやっている自分だった。



一年間探しても見つからなかった「引退の理由」。

それもそのはず。彼女の心は、まだまだスキーに飢えていた…!






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/7号 [雑誌]
「スキーで周りを喜ばせたい 上村愛子」

2013年1月27日日曜日

なぜか人が押したくなる背中。山本昌(プロ野球)



「人頼みなんです」

これは意外な言葉だ。これがプロ生活29年の大投手「山本昌(やまもと・まさ)」の言葉とは。



「『捕手のいうとおりに投げる』のが、ボクのスタイルなんです」

山本昌という大ベテラン投手は、黙って捕手の言う通りに投げるのが自身の仕事だと言い切る。

「ひとりの打者と対戦する回数は、投手よりも捕手のほうが絶対に多い。打者のクセなどは、投手よりも捕手のほうがよく知っている」と山本は言う。



野球の常識は、そのまったく逆ではなかったか。

「口では捕手を立てても、マウンドでは何度もクビをふり、打ち込まれた時は『言われた通りに投げたのに、このザマだ』と言わんばかりに口を尖らせる。投手というのは、それぐらい自己中心的でなければ大成できない。それが野球の常識だ」

ところが、山本昌にそんな自己中心的な影はどこにもなく、自らハッキリと「人まかせ」と言い切るのである。



そもそも、子供時代に野球を始めた時から、山本は自分の意志を強く持っていなかったという。

「兄が野球をしていて、キャッチボールをやる中で自然に野球をやることになって…。知らないうちに投手をしていました」と山本は振り返る。

その後の野球人生もやはり「人頼み」。

「高校も、中学の先生のアドバイスで決めました。お前はコッチへ行けと言われて…」と山本。



プロに入ってからも、分かれ道には必ず「背中を押してくれる人」が立っていた。

たとえば飛躍のキッカケとなった入団5年目のアメリカ留学、当時ドジャースの会長補佐だったアイク生原がアメリカ球界の仕組みを教えてくれた。ドジャース傘下のルーキーリーグで好結果を残した山本は、星野仙一監督に認められ帰国することになる。



「迷ったりする時には、いつも背中を押してくれる人がいるんです。自分でもなぜか、『決めてくれる人』がいるんじゃないかと思っているところがあるんですよ」と山本。

誰かが背中を押してくれる、それを山本は「人頼み」と言う。「だが、押し甲斐のない背中にわざわざ手をかける者はいないだろう。山本の背中は、なぜか人が押したくなる背中なのだ」。



「いろんな人から背中を押されてる感じですね」

そう山本は語り出す。

「45歳までは、人に会うと『あと1年がんばってくれ』と言われました。でも最近は、『50歳までやってくれ』って言われます」

あと3回のキャンプを乗り切れば、そのシーズン中には50歳になる山本昌。むろん「前人未踏の領域」、最年長の左腕だ。



「やれと言ってもらえるのは素晴らしい」と山本。「自分はなんて幸せな人間なんだって」。

プロ生活29年間、いくつもの岐路を「人頼み」で乗り切ったという山本。その選択はじつに「大らか」。「人一倍広い山本昌の背中」は、仲間にとっても、ファンにとっても、きっと「押し甲斐のある背中」なのだろう。

「給料もアップしてもらって、希望にあふれてますよ」と、大きな背中の山本は豪快に胸をそらした…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「いつも誰かに背中を押され 山本昌」

2013年1月26日土曜日

屈辱から栄光へ。無心と無欲の日体大(箱根駅伝)。



波乱が相次いだ今年の「箱根駅伝」。それを制したのは、ダークホースの日体大。予想でいえば「無印に近い▲」。

「正直、私も驚いてます」と日体大の別府監督。



「強風」が吹き荒れた217kmの襷(たすき)リレー。各校のエースを苦しめたのは、その「強い向かい風」だった。

「これだけ風が吹くと、速さじゃなくて『強さ』がないと勝てません。監督をやって9年、この70kgの身体が風で飛びそうになったのは初めてですよ(早大・渡辺監督)」

最高地点の二子山では風速20m/秒ちかい突風が吹きつけていた。



そんな突風の中、日体大の3年生キャプテン「服部翔大」は「山の上の景色がよかった」と振り返る。彼の足取りばかりは強風の中も乱れることはなかった。

「日体大のエース服部は見事に自分の役目を果たし、首位・東洋大との1分49秒差を逆転。それだけではなく、2分39秒ものリードを奪った」

かつて、5区山上りで圧倒的な走力を誇った東洋大の柏原竜二は「山の神」と呼ばれたものだが、今回の服部の力走は、「山の星」という新たなニックネームを彼に与えることになった。





思えば昨年、日体大は屈辱の19位に沈んでいた…。

「前回19位に沈んで予選会に回ったチームが、たった一年で頂点に登りつめるなど、駅伝ファンならずとも誰が予想できただろう?」

前回の屈辱的な敗北は、別府監督に「根本的なやり直し」を誓わせた。4年生たちを「お前たちの実力じゃモノ足りない」と一蹴し、あえて3年生の服部翔大を新たなキャプテンに指名したのだった。



別府監督はナシ崩しになっていた寮の消灯時間を22時半で徹底。起床は5時半。厳しい規律を部員たちに課していく。

「練習が良くても、生活態度が悪ければ勝てない。『心をつなぐ』のが駅伝ですから」と別府監督。



朝練の前には必ず、全部員に「鍬(くわ)」を持たせてグランド整備を義務づけた。

「草をむしるための鍬(くわ)をね、学校に言って買ってもらいました」

今年の箱根駅伝の番狂わせは、「鍬から生まれた大金星」でもあったのだ。



「往路」は、キャプテンかつエースの3年生・服部の果敢な走りによってトップに立った日体大ではあったが、「往路を終えた時点ではまだ、総合優勝の行方がどう転ぶかはわからなかった」。

「復路」には、前回王者・東洋大の誇る名選手たちが控え、対する日体大は一度は別府監督に見捨てられた4年生が3人控えていた。「どうしてもウチの選手は劣る…」と別府監督。

それでも日体大の4年生3人は「悔しさを晴らしたいという一心」で奮起していた。4年生たちには、自分たちが差し置かれて3年生にキャプテンを奪われたという「悔しさ」も加わっていたのである。



いよいよ決戦の「復路」。東洋大の選手たちは「早く追いつこう」と焦ってしまい、本来の走りを自ら崩していった。それとは対照的に、日体大の4年生3人は「ただ前を見つめ、正確に、力強いリズムを刻み続けた」。

日体大の4年生3人は一人も区間賞は取れなかったものの、3人そろって区間2位の力走。「東洋大に差を詰められるどころか、最終的には3分弱の差を4分54秒にまで広げる勝ちっぷり」。



「最後の1km、最後の一歩。たとえ1mでも前へ行こうという気持ち、それで後のランナーは走りやすくなりました」と別府監督。

追い詰められた4年生たちの「覚悟」が、その走りを変えたと別府監督はレース後に語った。一年間の悔しさに塗(まみ)れていた4年生の3人こそが、「総合優勝の立役者」となったのだった。



「じつに30年ぶりとなる総合優勝」

来季も7人の箱根経験者が残り、最優秀選手賞を獲得した「山の星」服部も山に控える日体大。当然、「連覇の可能性」も高い。

その可能性について問われた別府監督は、相好を崩してこう答えた。

「そんなんムリ(笑)。今回は無心で無欲。だから優勝できた」

昨年泣いたからこその今回の優勝だと、別府監督は勝っても奢るところがなかった。



「無心と無欲」、そして4年生たちの「覚悟」。

そんな日体大は、昨年浴びた罵声を糧(かて)に、まさかの大躍進を果たした。

毎朝「鍬(くわ)」を握ったその手で勝ち取った栄冠。それは、箱根駅伝の歴史に燦然と輝く大金星となったのだった…!






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「鍬から生まれた大金星 日本体育大学」

2013年1月23日水曜日

「アタックしてこそ、扉は開く」。佐藤琢磨(レーシング・ドライバー)



「アタックしてこそ、チャンスは開ける」

それがレーサー「佐藤琢磨(さとう・たくま)」の持論である。



だからこそ、8年前(2004)のF1レース、ニュルブルクリンクの1コーナーで、琢磨は2位のバリチェロ(フェラーリ)に挑みかかった。

「結果は失敗でした」

琢磨の言う通り、琢磨がバリチェロのインに入った直後、2台は接触。「ノーズを壊した琢磨は再度ピットイン。表彰台のチャンスを逃した」。



「接触したんだから失敗です」と琢磨。「もしあそこで『無理だ』と思って行かなかったらとしたら、そのまま走れば3位表彰台。でも、自分の中では『必要なアクション』だったんです」

「あそこで『行かない』という判断を自分が下すなら、そもそも僕はF1マシンに乗っていたかどうかも分からない」と琢磨は振り返る。



1,000分の1秒を争うF1ドライバーは、「外界から想像できない速さで無数の思考を重ね、決断する」。

その決断によって表彰台を逃したことを、琢磨は「後悔していない」。「自分を省みることはあっても、振り返って悔やんではいないのだ」。

「あれをやらなかったら、次に進めていなかったと思うんです」と琢磨。



しかし、周囲は悔やんだ。琢磨の逃した「初表彰台」を…。

「シケインまで待てばよかったのに…」

そのシケイン(半径のきついコーナー)は、琢磨の仕掛けた1コーナーよりもずっと先にあった。傍観者たちは、そこまで勝負を待つべきだったと言って悔やんだのだ。



しかし、琢磨に「待つ」という選択肢はなかった。

「タイヤの性能低下も考えると、本当に『あの一瞬』しかチャンスがなかった」と琢磨は振り返る。

当時のF1タイヤは交換直後に「一発の速さ」を発揮した。それを活かせるのは1ラップ(一周目)のみ。シケインまで待てば、タイヤはフレッシュな性能を失い、琢磨のマシン(B.A.R)でフェラーリを攻撃することは不可能だった。

それがワンチャンスであったことは、ミシュランタイヤの責任者もはっきりと認めた。「琢磨の勝負が可能なのは、『あの1コーナーだけ』だった」と。



「ボクはあそこで『勝てる』と思うわけです。そこにラインがあって、スペースがあって、『自分は行ける』と信じて行動に移すわけです」と琢磨。

琢磨が目指すのは常に「勝利」。そのチャンスが目の前にありながら、表彰台に固執する気はサラサラない。



レース中に「考えた」というと、最低でも1秒は猶予がある印象を受けるが、実際、レース中に思考が与えられる時間は「瞬きよりも短い」。時速370kmというのは、そういう世界だ。

その瞬きよりも短い一瞬、あの1コーナーに琢磨は「勝利」を見たのであった。だからこそ、「行った」のだ。



「でも、『もう一人の自分』もいるんです。『もし結末を知っていたら、行かないよな…』っていう…」

もう一人の佐藤琢磨は知っている、「2位でも3位でも、巧く利口に『マシン的にこれが限界』と周りを説得し、『実力派』というステータスを手に入れるほうが効率的だ」ということを。

それを百も承知で、琢磨は「行く」のだ。「攻めてこそ、扉は開く」。2位や3位に甘んじた先に、彼の求めるものは存在しない。そもそもレースをやる意義そのものが失われてしまう。





「佐藤琢磨は『危険なドライバー』か、否か?」

あまりの激しい琢磨の攻めに一時、F1界は議論に沸いていた。2004年、ニュルブルクリンクの1コーナーでバリチェロに接触した琢磨に、「批判の矢」が降り注いだのだ。

バリチェロは琢磨の無謀な攻めを「アマチュア的な行為」と批判し、ほかのドライバーたちも「琢磨にペナルティを与えるべきだ」とのキャンペーンを盛んに行った。



しかし、接触の様子を検証したFIAのレースディレクター(チャーリー・ホワイティング)は、こう結論づけた。

「ペナルティが必要なら、それを受けるべきはバリチェロだった」と。

琢磨のブレーキングは破綻しておらず、ターンインの前に琢磨のマシンのフロントタイヤは、バリチェロのリアアクスルより前に位置していた。すなわち、2台で1コーナーに突入した時、イン側に1車体分のスペースを空けるべきはバリチェロであったのだ。そして、彼にはそれが可能であった。

琢磨が訴えていた通り、そこには確実に「ラインがあり」、「スペースがあった」のだ。そして何より、琢磨はその一瞬に「勝利」を垣間見ていたのであった。



「もしあのニュルブルクリンクでバリチェロを抜きに行っていなかったら、おそらく2012年のインディ500の最終ラップでも、ボクは行ってないですよね」と琢磨は最近の話を始めた。

インディアナポリスの200週、最後のラップで琢磨はまたしても「インに飛び込み、レースを失った」。8年前のニュルブルクリンクの時と同様に…。



当然、周囲からは「あのまま安全に行っていれば…」と惜しむ声が漏れた。

しかしやはり、琢磨に「後悔はない」。彼が後悔を感じるのは「アタックしなかった時」なのだから。

「両方とも失敗なんですけど、絶対にその次につながるんです」と琢磨。「アタックしてこそチャンスが開ける」。彼のこの持論は、失敗を繰り返すたびに強固になっていくかのようである。



「ボクには一度として満足に終えたレースはないんです」と琢磨は語り出す。「『あれが失敗だった』なんて、いくらでもありますよ(笑)! だって『失敗だらけ』じゃないですか!」

2008年、琢磨はF1のシートを失った。その後、一年半レースを走らず、2010年からインディに転向。



「もう一人の琢磨」は知っていたかもしれない。もう少し待っていたら、あとでF1のシートが空くことを…。

「でも、待てなかったんです」と琢磨。自分を偽ってまで、政治的に巧く立ちまわる気は、全くなかった。

「アクションを起こしてチャンスをつかみに行けない状況が、あまりにも辛かったから…」と琢磨は振り返る。



琢磨のアタック精神は今、インディのレースを大いに沸かせている。「アメリカン・ドリームを体現するレースを支えるインディ・ファンは、琢磨のアタックに盛大な拍手を送る」。

インディのファンは、「あそこで行くのは当然」と琢磨を称賛する。たとえ、そのアタックが失敗したとしても。逆に、もし琢磨が従順にレースを終えるのならば、そのほうが大いに「残念」なのだ。



「だから、後悔はないんです」と琢磨。「未知のアメリカで『切り拓いていけるかも』とワクワクする感じがインディにはあるんです。だって、いまはインディで勝つアタックの真っ最中だから!」

「世渡り」だけを考えると、琢磨は「ひどく不器用」だ。

しかし、琢磨の目指すものは「世渡り」の先にあるものでは決してない。それは「失敗の先にこそあるもの」なのだ…!



「その時の選択が正解であったかどうか?」

そんな思考を琢磨が引きずることは、ついぞなかった。いったん選べば、その結果手にした状況の中で、琢磨は自分の力を発揮するのみ。「振り返って後悔しているヒマなどない」。

「本当に勝つ条件が整った時に、ボクは必ず勝ちます」






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「攻めてこそ、扉は開く 佐藤琢磨」

2013年1月22日火曜日

なぜゴールキーパーを選んだのか? その奥深い喜びとは?



ゴールキーパー(GK)

「およそどんな競技でも、ゴールキーパーは子供たちが奪い合うポジションではない」

それはそうだろう。点を取れる可能性のあるフィールド・プレーヤーとは異なり、ゴールキーパーは「点を取られる方」なのだ。



「最初はやっぱりイヤでしたねぇ。ゴールは取られるんじゃなくて、自分が取りたいですしねぇ」

そう語るのは、サッカー日本代表のGK「西川周作(にしかわ・しゅうさく)」。子供の頃の彼の憧れは、やっぱりカズ(三浦知良)だった。

「みんなより一回り身体が大きかったので、ボクが(GKを)やることになったんでしょうねぇ。腕白相撲に出るぐらいにパンパンでしたから(笑)」





アイスホッケー日本代表の「福藤豊(ふくふじ・ゆたか)」も、身体の大きさを買われてGKになった選手の一人だ。

「正直、誰もGKをやりたがらなかったですね。一番身体が大きいという理由だけで、ボクが指名されまして…」

福藤は史上初めて高校生で日本代表に選出され、以後、日本人初のアメリカNHLプレーヤーとなる選手である。それでも、小3から始めたアイスホッケーは、決してGKをやりたいからではなかった。

「点を取ることに楽しみを感じて、アイスホッケーを始めていますからね。当時の防具はものすごく重くて、水を吸い込むとさらに重くなる。座って立ち上がるのさえ大変なのに、点を取られるとみんなに責められる」



そうなのだ。子供たちはどうしても、「失点したらGKのせい」と思いがちだ。だからなおさら、「ゴールキーパーは子供たちが奪い合うポジションではない」

その結果、GKというポジションを選んだ理由は消極的な場合が多い。むしろ「やらされた」という理由が多いのだ。



そんなGK環境にあって、ハンドボールの日本代表「甲斐昭人(かい・あきひと)」は積極的にGKを志願した一人だ。

「小3でハンドを始めて、自分から『GKがやりたいです』と立候補しました」と甲斐。

甲斐の場合はむしろ「フィールドが嫌」だった。監督から「GKをやめてフィールドでやれ」と何回言われても、彼はGKに固執した。

「正直、走るのが好きじゃないからGKがいい、というのもありました(笑)」



のちに「10年に一人の逸材」と謳われることになる甲斐。なにも走るのが嫌いということだけがGKに固執した理由ではなかった。純粋にGKが面白かったのだ。

「ハンドのGKは、試合を支配することができるんです」と甲斐。「決定的なシュートを止めれば会場が盛り上がり、流れを変えられる。一番目立って、勝敗を決めるポジションなんです」

サッカーGKの西川も同じようなことを口にする。

「いくら攻められいても、得点を許さなければ流れは変わります。GKはワンプレーでゲームを変えることもできるんです」



GKはシュートを打たれるだけの受け身の存在。そんな先入観が、GKを敬遠してしてまう理由にもなっている。

しかしどうやら、この孤独なポジションには、GK以外のフィールド・プレーヤーが知らない「特別な喜び」が潜んでいるようだ。



「色々な駆け引きができるポジションだな、という気はしますね」と西川(サッカー)。「こっちからシュートを誘い込むというか…」。

「オレの中で、キーパーは『受け身じゃない』ですね。シュートは自分でタイミングをはかって、自分から止めに行く。打たせている感覚です」



GKが受け身でないチームは、GK主導でゲームが組み立てられる。

サッカーやアイスホッケーと違って、ハンドボールは1試合で50〜60本ものシュートが飛んでくる。それゆえに「駆け引き」も物凄く多くなる。

「そこで受けにまわると相手に先手を取られるので、意図的にコースを空けたりして、シュートを誘うような駆け引きはしますね」と甲斐(ハンドボール)。



「氷上のボス的存在」

アイスホッケーの福藤は、GKというポジションをそう感じている。

ホッケーのゴールは小さいために、大げさに言えば「すべてが取れるシュート」。それゆえ、GKが崩れたら試合は簡単に決まってしまうのだ。



GKの奥深さは、GKに「特別な喜び」を与えている。そして、その喜びを知ったGKは「練習や試合を離れても、彼らはGKであろうとする」。

「色々と話をしながらも、人間を観察しているところはありますね」と福藤(アイスホッケー)。「GKって常に周りを見ているんです。人のクセとか動きとかを観察したくて、トレーニングでも一番先頭ではなく一番後ろ、ミーティングでも一番後ろに座る」。

ゲームの最終局面において、相手の性格を知っていることがGKには有利に働く。それは、「大事な局面になるほど、相手は一番自信のあるところにシュートを打ってくる」からだ。



この「GKであろうとする感覚」は、西川(サッカー)も共有している。

「みんなでワイワイしている時も、この選手は飲むとこうなるんだとか、冷静に見ている自分がいます」

「それって、変わってますか?」



一様に「変わり者」と呼ばれがちなGKたち。

その魅力に取り憑かれた選手たちの憧れは、カズ(三浦知良)から川口能活へと変わっていく。

そして、彼らGKたちこそが、ゲームの奥深い喜び、そして人間の深みをより理解しているのかもしれない…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「GK人生という選択 西川周作・福藤豊・甲斐昭人」

2013年1月20日日曜日

「勝てない自分」に「自分でない自分」。浅尾美和(ビーチバレー)。



「勝てない選手」

ビーチバレーの「浅尾美和(あさお・みわ)」は、その際立った注目度とは裏腹の「勝てないという現実」に苛まされ続けていた。

「浅尾美和ほど、人気・知名度と競技成績のギャップが激しいアスリートはいないだろう」



テレビに出ています。雑誌にも出ています。CMにも出ています。

でも、「勝てなくてゴメンナサイ」。

浅尾は試合で負けるたびに、熱烈なファンたちにそう謝り続けてきた。「デビュー時から目標としていたオリンピック出場はおろか、ツアー優勝もゼロ…」。



しかし一方で、「浅尾美和がいたからこそ、ビーチバレーが注目を集めたのも事実」。

「ビーチバレーの認知度を上げるために、テレビや雑誌に出なければならないことは、最初から言われていましたし、抵抗はありませんでした」と浅尾。

彼女がテレビや雑誌、CMに登場するにようになったことで、ビーチバレーはマスコミにも取り上げられるようになり、会場に訪れる観客数も増えた。



しかしそれでも、彼女はアスリートである。

競技においての最大の目標は「勝つ」ことだ。そのための努力を惜しんだことはついぞなかった。

「前のシーズンが終わったあとは、オフをとらずに合宿をして、毎日2時間半を3回、7時間半の練習。それが終わったらウェイトトレーニング。雨の日もビショ濡れになりながら、砂浜に出ていました」と浅尾。

だが、今シーズンが始まっても「思うような結果」はついて来なかった…。一縷の望みをかけていたロンドン五輪への道は早々に絶たれ、年間優勝を目指していたツアーでも、第5戦でもはや年間優勝は無理だと分かってしまった。



負けても負けても、注目される浅尾。

「勝った選手よりも負けた私にカメラが集まることが辛くて、他の選手に気を使ってばかりいました…」と浅尾はその胸中を語る。

メディアやマスコミの中の「ビーチの妖精」は、いつの間にやら「自分ではない浅尾美和」になっていた…。



「引退…」。この言葉が脳裏に浮かぶようになったのは、今から3年前。

「万年3位」と揶揄されていた西堀選手とのペアを解消し、草野選手との新ペアで臨んだ2010シーズン。3位になることすらなかなかできなくなってしまった時のことだった。

「地元の三重で、ケーキ屋さんでもやろうかな…」

誰よりも注目され、勝利を期待されているのに「勝てない」。もう、負けて謝り続けることも、コートに立つことすらも、「すべてを投げ出して逃げ出したいくらいの気持ち」だった。



それでも、彼女は引退を思いとどまり、もう一度砂浜に立つ決心をした。

「自分が選手をやめようなかと思って、少し冷静に周りの話を聞くと、人を応援するって決して『勝ち負けだけじゃない』んだなということが分かってきたんです」と浅尾は3年前を振り返る。

「私の周りには、オリックスとか浦和レッズの熱烈なファンがいるんですけど、彼らは贔屓のチームが勝っても負けても、楽しそうに試合の話をしている。それで勝った時は『ビールが美味い!』って(笑)」



自分自身が誰かのファンになったりすることがなかったという浅尾。そのため、勝っても負けても…という「ファン心理」をちゃんと理解できていなかった。

「『ファンの気持ち』ってこういうものなんだと分かったら、肩の力が抜けてすごく楽になったし、改めてファンの方への感謝の気持ちも湧いてきたんです」と浅尾。



全然優勝できなくても、毎回全国の会場に足を運んでくれるファンもいる。

「その人たちに、『勝てなくてゴメンナサイ』じゃなくて、勝っても負けても『ありがとうございます!』と言いたいな」と浅尾は思うようになっていた。

「できれば私が優勝して、美味しいビールでも飲んでもらいたいなと思って、もう一度がんばろうという気持ちになったんです」



この時のスランプを脱して以来、浅尾の選手としての評価は高まっていった。

「今年は絶対に優勝できる! できないはずがない!」

そう信じて臨んだ今シーズン。「どんなチームよりも練習していた自信があるし、自分自身の成長も感じていたので、手応えもありました」と浅尾。



しかし、現実は冷酷だった。

ツアー第5戦で年間優勝の道が絶たれた瞬間、「気持ちがプツンと切れた」。

「調子も良かったし、努力もしました。それでも勝てないのか…と思って、すごく悲しかったです…」と浅尾。



この時、浅尾の心に「悔しさ」は湧いて来なかった。そして、それが「引退」へと彼女の背中を押すことになる。

「あの時、悔しいと思う気持ちがあれば、来シーズンも頑張ろうと思えたんでしょうけど…」と浅尾。



引退の記者会見を終え、浅尾は長年背負ってきた「ビーチの妖精」の看板をようやく降ろすことができた。

「今はスッキリした気持ちです。もし3年前に苦しさから逃げ出すように辞めていたら、もう二度とビーチに関わりたくないとおもっていたでしょうね」と浅尾は語る。

「でもこの2年間、心からプレーを楽しむことができたから、始めた時と同じか、それ以上にビーチのことが大好きでいられます。ビーチバレーを大好きなまま引退できて、本当に良かったと思っています」



8年間の競技生活の末、浅尾美和は26歳という若さで砂浜を去った。

「どうしてやめるの? まだまだやれるよ!」

同郷の吉田沙保里(女子レスリング)は、驚きを隠さない。ビーチバレーの適齢期は30歳前後と言われ、パワーやスピードよりも経験値がモノを言うというビーチの世界にあって、「浅尾はまだ26歳」。4年後のオリンピック(リオ)へのチャンスも十分ある。



「もし、2020年の東京オリンピックが実現するとしたら、ちょっと興味が出てきますね」と浅尾は晴れ晴れと語る。

「でもとりあえずはしばらく休んで、ビーチバレーを外から見ていたいんです」



「ビーチの妖精」、そして「勝てない自分」。

さまざまなギャップの中にいた浅尾美和の現役8年間。

「これからは、全国の子供たちに私が感じたビーチバレーの楽しさを伝える活動をしていきたいと思っています」と浅尾は今後を語る。




「勝つことだけが楽しさじゃない」

浅尾の感じているビーチの楽しさは、もっともっと深いものであろうし、もっともっと息の長いものなのであろう…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「あのときの決心があったから 浅尾美和」

2013年1月19日土曜日

100の選択の先にある勝利。「武豊(競馬)」



「100回以上の選択ですか?」

「武豊(たけ・ゆたか)」の言葉に、若手騎手たちは驚かざるを得ない。一つの競馬レースに際して、武豊は100回以上の選択を繰り返しているというのだ。



秒単位で変わるレースの状況に対応して、常に馬とコミュニケーションを取り続けるのがジョッキーの仕事だと、武豊は自負している。

馬が歓声の正体を確認したがっていたら、その方向に向けてやったりもする。時には、ゲートが開いた瞬間に「まるで違う選択」が閃(ひらめ)いて、作戦を変更することもある。



もちろん、レース前にも色々考える。

「イン」にこだわると決めていた去年のマイルチャンピオンシップ。ところが前日、ひどい土砂降りのために、内側が不利な馬場状態にみるみる変化していく。

「これじゃあ、外へ出て行くしかないな」

だが当日の朝、空はカラッと晴れて風も吹いている。

「あれ? 乾いてくるんじゃないか?」



結局この日、武豊は当初の予定通り、「イン」にべったりと張り付いていくことに決める。それでも、実際にスタートしてみないとどうなるか分からない。

「もし同じことを考える騎手がもう一人いたら、それだけで狙っているポジションは窮屈になりますから」

このレースでは、「たまたま予定していた通りの競馬」ができたと武豊は振り返る。しかし、それは「珍しいケース」なのだという。



25年というキャリアを積んできた武豊にとって、「あっ、これはあのレースと同じ感じだ」みたいな場面は割と頻繁に出てくる。

すると、「あの時、インに行ったらパッと道が開いたんだよな…」といった記憶が蘇ってくる。しかし、たとえ過去と同じ選択をしても、道が開かなかったり…。

「当然ですよね。どんなに経験を積み重ねて、似た場面を分類できたとしても、正解はその都度違うんですから」と武豊。



武豊がまだ売り出し中だった若手の頃、彼はこんな意味深なことを言っていた。

「実戦を一万回経験したときに、今まで見えなかったものがきっと見えてくる気がするんです」

経験と選択。経験を積めば、選択肢も増えてくる。そして、それらの選択肢の中には正解が含まれる確率も増えてもくる。

しかし今なお、「あそこでこうすれば良かった…」「あそこはあっちだったな…」と思うことは少なくないと武豊は言う。



そんな武豊は自分自身を「優柔不断かもしれない」と分析する。

周りの人は時にヤキモキする。なにせ、武豊はなかなか「決めない」のだ。

「決められないというのではなくて、決めないんです」と念をおす武豊。「飛行機とか宿とかレストランとか、早くから前もって予約を取ることはほとんどしないですね」。



なぜ、「決めない」のかというと、「あとから、もっといいのが出てくるんじゃないか、と心の中で思っているからです。ボクは欲張りだから」と武豊。

彼は自分を「迷わない性格」だと言う。ただ選択の直前まで決めないだけなのだ。それは、「もっといいもの」を待つ気持ちと当時に、「その時その時の感覚で決めたい」という思いがあるのだそうな。

「考えてみると、レース中はその場その場で『瞬間の判断』を求められているので、『どうしようか?』なんて迷ったことはないような気がします」



「直前まで決めないのがベスト」

それが武豊のスタンスである。

そんな彼は「なかなか決めない人」でもある。



1987年のデビュー以来、年間200勝、前人未到の3,400勝(現在JRA2,497勝)。それらの勝利を支えてきた武豊の「無数の選択」。レース中には秒単位で、その変更も迫られてきた。

「う~ん、どうやって選択しているんだろ…? そうか、いつも『少しだけあとのこと』を考えて乗っているんですよ」と武豊。「1コーナーでは2コーナーのこと、2コーナーでは3コーナーのことを考えてる。直線でゴチャつきそうだなというのは3コーナー過ぎあたりで計算しているんですよね、きっと」。

こんな告白に触れると、その戦略性に富んだ騎乗とは大きなギャップを感じずにはいられない。



昨今、43歳になった武豊には「引退」という外野の声も聞かれるようになった。

「最近は、『将来は調教師になるの?』と、皆さんに遠慮なく聞かれるようになりました」と武豊は言う。それに対する彼自信の正直な気持ちは、「今のところ、まったく考えていない」とのこと。



「う~ん、あとのことを考えて乗っている騎手は、ボクを含めてほとんどいないと思いますよ」

最後に武豊は、こう付け加えた。

「ジョッキーって、そういう人種なんじゃないかなぁ…」






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「結論を出すのは直前がいい 武豊」

2013年1月18日金曜日

頑固な「澤穂希(なでしこ)」、今までの選択に後悔はない。



結婚して引退するか、サッカーを続けるか?

「澤穂希(さわ・ほまれ)」24歳、彼女は大いなる決断を前にしていた。

「当時の澤には、アメリカで知り合った恋人がおり、彼と結婚してアメリカで生活を送るのか、それとも日本に復帰してサッカーを続けるのか、という選択を迫られていた」



澤がアメリカへ渡っていたのは、当然サッカーのため。

大学を中退してまでアメリカへ飛んだのは、2年後にプロリーグが発足するアメリカのクラブ、デンバー・ダイアモンズに入るためだった(当時20歳)。

アメリカという「女子サッカー王国」は、それほどの魅力に輝いていたのである。



アメリカでの澤は、ドラフト指名されてアトランタ・ビートへ移籍。2度の準優勝に貢献することとなり、オールスター戦にも出場。

「澤は、アメリカでも一目置かれるプレーヤーとなった」

しかし、リーグ自体が資金難に陥ってしまったことから、「わずか3シーズンで解散」。もはやサッカーでアメリカに留まることは叶わない。サッカーを続けるならば、一時日本に帰国せざるをえない状況に追い込まれた(当時24歳)。



「サッカーか、結婚か?」

24歳の澤は、「引退して結婚してもいいかな…」と思っていた。恋人の職場はアメリカ、一緒に暮らすならサッカーはもう続けられない…。

もし、ここで彼女が引退へと傾いていれば、日本女子サッカーのW杯優勝も、ロンドン五輪の銀メダルもなかったかもしれない。



「今、自分のやるべきことは何なのか?」

澤の自問は、オリンピックを向いていた。

「シドニー五輪の出場を逃して、アテネに絶対に行くっていう目標を掲げてやってましたから…」



「やっぱり、サッカーだったんですよ」

澤は日本女子サッカーの未来を想わずにはいられなかった。

「サッカーを辞めちゃったら私、絶対に後悔するだろうなという思いが強かったんです」と澤。



2004年4月、アテネ五輪への切符をかけた北朝鮮戦で、澤は右ヒザ半月板損傷という大ケガに見舞われてしまう。それでも痛み止めの注射を打って澤は出場。

「満身創痍の状態で、アテネ行きの切符をもぎ取った」

アテネ五輪の本大会においては、日本女子チームは「なでしこジャパン」という愛称を得て、ベスト8まで勝ち進むこととなる。



続く4年後の北京オリンピックでは、惜しくも3位決定戦でドイツに敗れ、念願のメダルを逃す。

「あと一歩へと迫った夢」

「なでしこ」の象徴とされた澤も、もう30歳になっていた。それでも、その一歩に少しでも近づくため、澤は2度目の渡米を決断する。

「やっぱり女子サッカーの世界では、アメリカという国は強いし、魅力的でしたから」と澤。移籍先のワシントン・フリーダムでは、ロンドン五輪でも雌雄を決することとなるワンバック選手ともプレーをともにすることとなる。



2011年に帰国する澤。以後、彼女の率いる日本代表の大活躍は余人の知るところであろう。

2011年のW杯、なでしこジャパンは最強豪国のアメリカを破り、世界一に。そして、2012年のロンドン五輪では、そのアメリカに敗れるものの、悲願の銀メダルに手が届く。



「私、頑固ですし(笑)」

そう笑う澤は、今までのサッカー人生における大きな決断をすべてプラスに転じてきた。

「誰が何と言おうと、最終的に決めるのは自分。だから後悔はないんです。絶対にない」と澤。



「夢」にまで見たオリンピックでのメダルを手にした澤は、もう34歳になっていた。

そしてオリンピックの熱狂が冷めた後は、「これから何をしたいのか分からなくなった…」とも漏らしていた。



そんな悩みの中で澤の目に飛び込んできたのは、45歳にしてフットサルにまで挑戦するカズ(三浦知良)の姿。

「凄くカッコいいですよ。カズさんは現役にこだわって、ずっとサッカーをやりたいという気持ちが強い選手ですから」

そう言う澤の心の中からはもう、悩みがどこかへ吹き飛んでいた。



「自分もやれるところまでやりたいです」と澤は強く語る。

ロンドン五輪以降も、澤はリーグ戦、カップ戦などで休みなくプレーを続けている。



あの時、結婚していれば…。

あの時、サッカーを辞めていたら…。

澤の見る景色も、われわれの見る景色も今とはまったく違ったものとなっていただろう。



「選択したときは、それが正解かどうか分からない」

それでも澤は、キッパリとこう言い切る。

「でもね、今思うと、間違いじゃなかったんだ、って。うん。自信を持って、ハッキリそう言えますね」



もし10年前、サッカーか結婚かを決めかねていた澤は、この同じ言葉を言い切れたであろうか?

さらに、もし澤が結婚を選んでいたら、どうだろう?



これらの問いに対する答えはない。あるのは憶測ばかりだ。

それでも私は、こう思いたい。

「どんな決断を下していたとしても、きっと澤は後悔していなかったに違いない」

そんな彼女だからこそ、夢を成せたのだと思いたいのである…!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「4つの転機で考えたこと 澤穂希」

2013年1月16日水曜日

あくまで「低姿勢」の田澤純一(米メジャー)



日本球界を仰天させる決断。

ドラフト1位の最有力候補だった「田澤純一(たざわ・じゅんいち)」は、不敵にも12球団に"NO"を突きつけ、宣言通りにアメリカへと渡ってしまった(2008)。

「1位クラスがアメリカ行きを盾に指名を拒否するというのは、前代未聞の選択だった」



泡を食った日本球界は、緊急会議の末に「田澤ルール」というものを策定する。

「今後『第二の田澤』の出現を阻止するために、日本のドラフト指名を拒否して海外に行った選手は、帰国しても一定期間、日本の球団とは契約できないという申し合わせ」、それが田澤ルールだった。



だが、当の田澤本人には、このエピソードのような勇ましさがどこにもない。

「純一という名前のイメージ通り、素朴で、話し方もどこかノンビリとしている。とても、日本球界を揺るがすほどの決断をした男には全く見えない」

むしろ田澤は、意外なことを言い出す。「基本的には『マイナス思考』なんです。練習中も試合前も不安で仕方ない」。



最高球速156kmを誇った田澤は、社会人球界ではナンバーワンの右腕であり、それゆえ2008年はドラフト1位候補の筆頭にあった。

ところが、その豪腕の田澤は「じつは心配性」であり、自分がプロの第一線として活躍できるとは思っていなかったというのだ。

「社会人時代もプロの二軍と試合したことがありました。でも、打たれることが多くて、いきなり一軍で通用するとは思えませんでした」と田澤。



ドラフト1位指名ともなれば、当然「即戦力」と目される。実際、「当時、ドラフトの目玉だった田澤を即戦力として考えていない球団はなかった」。

しかし、田澤はそれが不安で仕方なかった。「実力ねえのに、って言われるだけですよ…」。



高校時代の田澤の実績は「なきに等しい」。

横浜商大高で甲子園には出場するものの、「控え投手だったため登板機会はなかった(高2)」。翌年は県大会の準決勝で、横浜高に3−16で大敗。甲子園にも行けなかった(高3)。

高校卒業後、田澤は社会人チームで唯一声をかけてくれた新日石エネオスに入社。だが、「最初の1年半は鳴かず飛ばず。2年目にはクビになりかけた」。



ようやく田澤が頭角を現すのは、社会人3年目に「抑え」として大活躍してから。4年目にはチームの大黒柱になっていた。

それでも田澤はまだ「マイナス」に考えていた。「先発としての実績は、全くありませんでした」と田澤。そんな中で彼は、ドラフトの目玉とされてしまったのだ。



最低でも、もう一年、田澤は社会人でやりたかった。自分をもっと磨く必要があると思っていたのだ。それでも、もはやプロ入りは免れられそうにない。

そこでようやく、「アメリカ」が彼の選択肢の中に飛び込んでくる。

「最初は笑い話みたいな感じで、僕もまったく考えていなかったんです」という田澤だが、新日石の監督であった大久保秀昭(元近鉄)の話を聞くうちに、アメリカに興味が出てきた。



大久保監督の語るところによると、どうやらアメリカは原則的に「育成」を前提に考えてくれるらしい。アメリカの育成プログラムは非常に合理的かつ計画的だと言うのである。

まだまだ実力不足だと自ら考えていた田澤にとって、「成長」の可能性があるアメリカは日本以上に魅力的に思えた。大久保監督からは同時に、「日本の育成事情のマイナス面」も聞かされていたのだから、なおさらだ。

そしてついに、田澤は国内12球団に「指名回避」を求めるファックスを送り、「アメリカ行き」を表明するに至るのである。



なるほど、田澤の渡米は「挑戦」とは一味ちがう。じつはそれは「安全策」であり、心配症の田澤にとって「より不安の少ない選択」だったのだ。

「しかし、日本の各球団も、メジャー挑戦をブチ上げた田澤が、よもやそんな観点でアメリカと日本を天秤にかけているとは思わなかったに違いない。いや、球団だけでなくメディアもそうだった」



田澤がアメリカに行くと明言すると、日本球界からは一斉に「米マイナーリーグの環境の厳しさ」を指摘する声が上がった。皆一様に口にしたのが「食事と移動」の過酷さである。

「遠征になるとホットドッグだけとかもありました。夜通しで10時間のバス移動とかも…」と田澤。

それを心配したツインズの西岡剛からは、「おまえ、日本でもバリバリできたのに、よくこんなところでやってるな…」と同情された。



ところが、当の田澤の口からは「苦労らしい苦労は、ほとんど聞かれない」。

「もともとハンバーガーとピザは嫌いじゃないんで…。朝はオムレツが出たりして、けっこういいんですよ」

「バス2台で移動するトリプルAは2つの席を独占できるんですけど、ダブルAだと1台で移動するので、一人1席みたいなこともありました。でも、それはそれでという感じでしたね」



そんな田澤の話を聞いていると、「アメリカのマイナー暮らしは過酷ではないのかと思えてくる」。田澤は「どこまでもアッケラカンとしている」のだ。

「僕はそんなにいい野球人生を歩んでいないですから」と田澤。「社会人でもクビになりかけたりして、常に崖っぷち。だから苦にならないんじゃないですかね」。



田澤本人は「マイナス思考」で「後ろ向き」と自らを評するのだが、彼の口から出る言葉は「プラス思考」でじつに「前向き」に聞こえる。

「(マイナーの過酷さを)何食わぬ顔で語る田澤の神経は、実は、誰よりも太いのではないか?」



レッドソックスと総額330万ドル(約3億円・推定)の3年契約を結んだ田澤は、わずか一年目でメジャー昇格を果たし、さっそくの初勝利を上げている。

「入団当初、『3年でメジャー』が目標だったことを考えれば、出来すぎとも言えた」

昨季、セットアッパーとして大ブレイクした田澤は、今シーズンからは「抑えのエース」という声も挙がっている。



アメリカでこれだけの実績を上げられる選手が、まさか「日本の一軍で通用するかどうか、不安を抱いていた」というのは、到底信じられない話だ。

田澤はどこまでいっても「低姿勢」のままである。「アメリカの水が自分に合っていたかどうかは分かりません。自信を持ってやっているわけではないので…」。



もはや、誰も田澤を「実力もねえのに」などと思わないだろう。

それでも「アメリカで適応できたからといって、日本でも通用するとは思えません…」と、最後まで彼は不安を隠さなかった…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「僕がアメリカ行きを選んだ理由 田澤純一」

2013年1月14日月曜日

「急がば回れ」を選んだ「大谷翔平(野球)」。



びわ湖?

その琵琶湖の写真が、日本ハム・ファイターズによる「大谷翔平(おおたに・しょうへい)」獲得への道標(みちしるべ)だった。

大谷翔平と言えば「日米で最高級の評価を受ける高校球児」。花巻東高校でピッチャーだった大谷は、岩手県大会で160kmという豪速球をキャッチャーミットに叩き込んでいる。



ドラフト会議の4日前、大谷はこう明言していた。

「アメリカでプレーさせていただくことに決めました」

それでもあえて、日本ハムはこの大谷をドラフト1位指名したのである。そして、この大器をまずは日本国内で育てようと、「びわ湖」の写真を彼に示したのであった。



その琵琶湖の写真は「急がば回れ」の由来である。

室町時代、東海道から京都に向かう時、その途上には琵琶湖があった。この琵琶湖を抜けるためには、水路と陸路の両方の道が用意されており、見た目には、水路の方が陸路よりも近く見える。

しかし、水路の舟は比叡山から吹き下ろされる強風にさらされるため、遭難する危険も高かった。だから、急ぐのならば遠回りでも瀬田の橋を迂回する陸路を使えと言うのである。そんな歌を詠んだ連歌師が室町時代にいて、その後に「急がば回れ」の格言になったのだという。



日本ハムが大谷翔平に示した「びわ湖」の意味するところは明白であった。

「夢を叶えるためには、アメリカに向かって舟で漕ぎ出るのが近道のように見えるかもしれない。だけど、遠回りに思える日本という陸路を行った方が、結果的には近道だよ」と、その琵琶湖の写真は言うのであった。

「説明を聞いて、これスゲェ…って思ったよね」と感心したのは、日本ハムの監督・栗山英樹氏。「あれを読んだら、オレだってファイターズ(日本ハム)を選ぶよ」。



当の大谷翔平には夢があった。

それは、卒業後に直接アメリカに渡ること。いまだかつて、高校生が直接アメリカの球団と契約した事例などない。だから大谷はそのパイオニアになろうという夢をもっていた。もしそれが叶えば、それは史上初のケースとなる。

この大谷の夢、そしてアメリカに行くんだという強い覚悟は「簡単には覆(くつがえ)らない」、誰もがそう思った…。



しかし、大谷には「迷い」もあった。何より、大谷の両親は日本のプロ野球を経てからの米メジャー挑戦を強く勧めていたのである。

また、意外にも大谷はアメリカに関する情報をあまり持っていなかった。米メジャーの球場を一度も目にしたことすらなかったのである。

「なぜ、日本を飛ばしてアメリカなのか?」。夢への想いばかりが先行している大谷は、この問いに対する明確な答えを持ち合わせていなかった。




「もしかしたら、日本の野球へのマイナス面を感じていいたのかもしれないね」

日本ハムの栗山監督は、言葉にならない大谷の気持ちを推察する。「日本はコーチや監督にいじられて、自分のやりたい野球ができなくなってしまう。アメリカならのびのびと自由にやらせてもらえるという、そんな感覚があったのかな」。



栗山監督が大谷翔平を日本ハムに是非招き入れたいと熱望したのは、「野球選手を育てようとしているんじゃなくて、人を育てようとするプライドと誇り」があったからだという。

栗山監督が大谷を初めて目にしたのは、彼が高校2年生の時。その第一印象は「唯一無二」。日本ハムのジェネラル・マネージャーである山田正雄氏は、大谷を「投手、打者いずれにしても『10年に一人の逸材』」と高く評価する。

それゆえに、大谷を大切に育て上げたい、栗山監督はそう熱望した。そこには今が良ければという発想は一切なかった。



栗山監督は長らく取材者として、アメリカのメジャーやマイナーのみならず、独立リーグまでをつぶさに見てきた経験がある。

そして実感しているのが、「日本の野球界が誇る最大の武器は、技術を学ぶノウハウだ」ということである。若い時にはしっかり技術を学ぶ必要がある。そして、「世界最高のシステムを持っているのは日本なのだ」と栗山監督は自信を持っていた。



熱く訴えかける栗山監督と面と向かった大谷は、心が動くのを感じていた。

「最初は早くアメリカへ行って、厳しい環境の中で自分を磨きたいという意気込みがありました」と大谷は語り始める。「でも自分なりにも考えてみると、必ずしもそういうふうになるわけじゃないなとも思いました」。



栗山監督は「日米の違い」を話し始める。

「日本は小さなマス、アメリカは大きなザル。日本のマスは小さいけれど、大事に汲み取ろうとする。アメリカのザルは大きいけれども、網目に残る水だけが大事にされる」

懇々と語る監督を前に、大谷の心はいよいよ日本ハムに傾いてゆく。



最後まで迷っていた大谷の心を押したのは、「二刀流」という提案だった。

「ピッチャーとバッター、どっちもやるというのはさすがに自分では考えてもみませんでした」と大谷が言う通り、日本ハムの示した「どっちも挑戦すればいい」という提案は予想外だった。そして、大谷の先入観を覆すものでもあった。



大谷自身はまだ、ピッチャーとバッターのどちらがいいのか「自分でも分からない」。ただ、「ピッチャーができない、バッターができないと考えるのは嫌だった」と大谷。

日本ハムはその両方に挑戦させてくれるというのである。これはアメリカでは絶対に不可能なことであろう。

「二刀流、やるよ」と栗山監督。「バッターとしては4番を打てるし、ピッチャーとしてエースになれる。ドラフト1位を2人獲るようなものだよね」。




「急がば回れ」

ついに大谷は「ファイターズにお世話になります」と口にした。



「やってみなきゃわかない」

未来の大谷は、ピッチャーとしても、バッターとしても、その素養は十分である。

「最初っから無理だと言っていたら、すべてが無理」

過去の大谷が160kmを目標にした時も、「できないと思っていたら終わり」だった。



はたして、大谷にとっての近道は海路なのか、陸路なのか?

大谷が最終的に目指すのは、琵琶湖よりもずっとずっと巨大な太平洋の彼方である…!






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「大谷翔平&日本ハム」
 

2013年1月13日日曜日

「情熱に年齢は関係ない」、三浦知良(サッカー)。



リスク

選択には「リスク」がともなう。



2012年、キングカズこと「三浦知良(みうら・かずよし)」は、「リスクある決断」を迫られていた。

「フットサル日本代表」に選ばれた時だ。

それはすなわち、サッカーから一時離れるという決断。折しも、所属する横浜FCはJ1昇格争いの真っ只中に置かれていた。



少し逡巡したけれど、結局カズは「フットサル」を選択する。

そこにあったリスクは、横浜FCを空けることが「チームにも自身にもプラスにならないこと」。そして、フットサル日本代表が「思うような結果を残せなかった時の痛手」である。



それでも、カズはフットサルという選択に対して、恐れは抱かなかったと言う。

「もし、フットサル日本代表がグループリーグも突破できなかったらボロクソに言われるだろうけど、それより、やらない方が後悔すると思ったんです」とカズ。

負けてボロクソに言われることが嫌でフットサルに行かなかったということの方が、カズ自身にとっては「一番許せないこと」だった。彼の選択肢の中では、「怖がって挑戦しない」という項目が「一番の後悔」に繋がってしまうのである。



結果的に、フットサル日本代表は史上初のグループリーグ突破、決勝トーナメント入りを果たし、大成功に終わる。

それでも忘れてならないのは、「まったく逆の状況だって十分にあり得た」ということである。最悪の場合、最も注目されていたカズがボロクソに叩かれていたかもしれないのである。







こんなカズの人生は「リスクの高い選択」の連続である。

人生最初にして最大の選択は「15歳」の時。高校を中退してまでブラジルへ飛んだ時のことだった。もっとも、15歳のカズはリスクを感じていなかった。というよりも知らなかった。

「当時の僕は、なんで大学を出るとメシを食っていけるのかを理解していなかった。公務員の意味も分からなかったし、そういう職に就けば生活が安定するなんていうことも知らなかった」



15歳のカズは、「ブラジルに行ってプロになれば、サッカーをやりながらお金をたくさんもらえる」、そして、「何千万ももらえば、利息で食っていける」という夢のような甘い考えしか持っていなかった。

「プロになるためにブラジルへ行く、それしかなかった」とカズ。

当時、高校のサッカー部の監督は「ブラジルのプロなんて99%、お前には無理だ」と親切な忠告をくれていた。しかし、「そんな言葉は僕の耳には入って来なかったんです」とカズは振り返る。



幸いにも、ブラジルで頭角を現したカズはその後、日本サッカー界の寵児となる。日本への帰国後のカズは、Jリーグで抜群の活躍をしながら、日本代表を牽引し続けることになる。

しかし1998年のフランスW杯へと向かう最中、カズは「まさかの日本代表、落選」…。カズは「悔しさにまみれる」ことになる。







ここで終わるか…、と思われたカズ。

しかし結果はその真逆だった。この時の悔しさが、「のちの信じられないほど長きに及ぶサッカー人生」の出発点となったのだ。

「クロアチアがすべての始まり」

そうカズが言うように、代表落選後のカズは新天地クロアチアで「果てしなきサッカー人生」を再スタートさせるのである。

「日本とは違うところで、ゼロからやりたい気分だった」とカズ。



クロアチアに渡ったカズは、かの地で「いくつかの宝物」を得る。

たとえば、クロアチア代表のゴッチァ(ゴラン・ユーリッチ)からは、「サッカーを楽しむと同時に、人生を楽しむ姿勢」を教わった。

そして何より、「情熱に年齢は関係ない」ということをゴッチァは教えてくれた。そしてこの気づきは、その後のカズを大いに勇気づけていくこととなる。







現在、46歳を迎えたカズ。

本来、引退していておかしくない年齢であり、さすがのカズも「20代の時のような広き門は、もう持っていない」。昨シーズンの公式戦フル出場は、1試合も叶わなかった。

それでもカズの情熱ばかりは衰えない。「ひたすらにゲームを渇望する」。



「一番大事なのは、試合に出て活躍したいという気持ち」

そのためだけにやっている、とカズは熱く語る。

「若い選手を頑張らせるために僕はやっているんじゃない。僕の背中を見せるためにやっているわけでもない」

カズはあくまで、「自分が試合に出て活躍したい」からこそプレーを続けているのである。



その「信じられないほど長いサッカー人生」の中で、カズはリスクのある決断を下し続けてきた。

しかし、「今はプレーヤーの一択しかない」とカズは断言する。「とにかく、気持ち良く思い切りサッカーに集中できて、試合に出られること、頭のなかにはこれだけしかないんです」。



30代半ばにして、力を残したまま引退を選ぶ選手たちが少なくない中、カズばかりは46歳になっても情熱に満ちている。まさにゴッチァの言う通り、「情熱に年齢は関係ない」。

「もう、やれることろまでやってやる…!」

カズの中では、この気持ちが未だ一度として切れたことがない…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「冒険してこそ人生 三浦知良」