2013年5月12日日曜日

高き矜持の硬骨師弟。ミスター長嶋とゴジラ松井




「野球選手というより、アメフトの選手みたいだね」

それが、長嶋監督の最初の印象だった。

「松井です。よろしくお願いします」

甲子園で5打席連続敬遠という怪物伝説をつくった松井秀喜。その体躯は高校生離れしていたものの、ニキビの多い顔ばかりは、どこか少年のように緊張していた。



松井秀喜が生まれたのは、1974年6月12日。この同じ年の10月14日、奇しくも、長嶋茂雄は「巨人軍は永遠に不滅です」の名言とともに現役を退いていた。

つまり、松井は巨人・長嶋の現役時代をまるで知らない。たまたま長嶋監督が通りかかったのを目にしても、松井は「誰のこと?」とキョトンとしていることもあったという。



1992年のドラフト会議当時、長嶋56歳、松井18歳。

4球団競合の末、長嶋監督は自らの手で「松井の当たりクジ」を引き当てた。

「自分が引退した年に生を受けた、未来のスーパースター候補を、直接育てるチャンスを得たのだ(Number誌)」










◎二軍落ち



「以来、私はことさら松井君に対しては厳しく当たった」

そう言う長嶋監督は、松井とは常に一定の距離を保っていたという。松井の指導は、当時打撃コーチであった中畑清(現DeNA監督)に一任。その中畑にも「アドバイスはするな」と厳命していたという。



注目のオープン戦における松井の結果は、惨憺たるものだった。

「20試合に出場し、53打数5安打。打率は0割9分4厘と低迷し、期待のホームランは0本に終わった(Number誌)」



「開幕一軍はもう無理だな…」

1年目の開幕直前、松井は「二軍」へと送られる。

珍しく悔しさを滲ませたという松井。



「一軍に置いておくことは簡単だった」と長嶋監督は言う。

だが、長嶋監督には松井を「日本の4番バッターに育てたい」というひときわスケールの大きな想いがあった。それだけの才能を松井に見ていたのである。

「指導者が理想だけしか見ないために、大きな才能が開花せずに消え去った例を嫌というほど知っています」。そう長嶋監督は語り始める。「松井には凄い才能がある。だが、彼にはまだ一軍でやれる力がなかった。だからファームに落とした方が、結局は近道だと判断したんです」






◎4番1,000日計画



その後、松井は約1ヶ月のファーム生活で、「打率3割7分5厘、4ホームランという結果を残し、5月1日には一軍再昇格を果たした(Number誌)」

そして、一軍昇格から2試合目、松井は高津臣吾からプロ初アーチを放つ(5月2日ヤクルト戦)。

「日米通算507本のホームランを放った松井の、これが物語の始まりだった(Number誌)」



その頃、長嶋監督は「ボチボチ(指導しても)いいだろう」との許可を、中畑打撃コーチに出していた。許可を得た中畑コーチは、松井を自宅へ呼ぶと、連日のように地下室で素振りをさせたという。

「オレが運転する車で連れて行くんだけど、松井は助手席に乗るなり、高イビキをかいていた。大物だよね(笑)。長嶋さんは、そういう『ふてぶてしさ』にも魅力を感じていたんだと思うよ」と中畑コーチは、当時を思い起こす。



松井の巨人一年目は、結局2度の二軍暮らし。57試合の出場に留まった。フル出場をするようになるのは2年目からである。だが4番ではなく、3番だった。

「松井は3年間は絶対に4番を打たせませんよ」と長嶋監督は言っていた。

のちに「松井育成1,000日計画」と呼ばれるものである。



「松井に4番を打たせる時は、『不動の4番』でなければならないんです」と長嶋監督。

「そうなるには1年や2年ではとても無理。最低でも3年はかかる。その間にみっちり打撃を鍛え上げて、一度据えたら10年間、4番を打ち続けられるような選手に育ててからでないとダメなんです。そうなるまでは絶対に4番を打たせません」






◎素振り



「松井は何してる?」

それはジャイアンツ寮にかけられた、長嶋監督からの唐突な電話だった。

松井はまだ寝ていた。それでも監督は「素振りを見たいと伝えてくれ」と言い置いた。



あわてて叩き起こされた松井。

「えっ、今からですか?」

面食らった松井であったが、なんとか長嶋邸にたどり着き、「素振り」の薫陶を受ける。



素振りをする松井。

そして、それを見守る長嶋監督。

2人の間に、会話はほとんどなかったという。ただ、2人だけしかいなかった。



「素振りとは、ただの打撃技術を磨くだけではない。剣道の素振りと同じで、精神の鍛錬という側面も持つ、修行のようなものなのです」

のちに長嶋監督は、そう語っている。






◎遠近



それからというもの、松井は時間と場所を選ばずに、長嶋監督の呼び出しをくらうようになる。

長嶋監督は「いつやる? 今でしょ!」という即断即決の人。そして、「一回やり始めたら止まらない人」でもあった。



松井は「えーっ?」と驚くような時に呼び出されることもあったというが、彼はふてぶてしくも「のんびり屋」だった。

「長嶋さんもイライラはしてるんだよね。でも松井が来ると、そんなことはもう忘れてる」

長嶋監督を待たせることもよくあったという松井。だが、長嶋監督は小さいことをとやかく言うタイプではなかった。



だが、人目があるところでは、長嶋監督は相変わらず松井を遠ざけていた。

「私が松井を指導しているところに、長嶋さんが横から口を挟んでくるようなことは一度もなかった」と、当時の打撃コーチ内田順三(現広島二軍監督)は言う。「全体練習のときにも、2人が話している姿もほとんど見たことがないですね」。

「2人はベンチ内でも、目を合わせない感じでした」と、専属広報・小股進も話す。



だが、遠くからでも、長嶋監督の松井への眼差しは熱かった。

ある時、長嶋監督は「凛としてろ」と小声で松井に言った。

「満塁で三振しても、4番なら下を向くな。凛としてろっていう意味だったと思います」と、内田順三打撃コーチは回想する。






◎砥石と刀



「長嶋さんは陰で、すごい松井に気は遣っていたよ。オレとか人をうまく使いながらね」

そう言うのは、当時のコーチ中畑清。

「松井は元気に『おはようございますっ!』なんて言えるタイプじゃない。言葉少なでぶっきらぼう。監督への挨拶だって、最初はヒヤヒヤさせられましたよ」



プロ入り当初、さすがの松井も、巨人の中では「劣等生」。

「松井は不器用だから、心配でしょうがなかったんじゃないかな」と、専属広報だった小股進は語る。



それでも「飛距離」は凄まじかった。

「彼にはケタ外れのパワーがあった。『グシャ』っていう詰まったような音で、あれだけ飛ばせるのは彼しか見たことがない(小股進)」



2人だけの素振りも続く。

「監督は、必死にスイングする松井の周囲を必ず一周し、前後左右、すべての角度から、バッティングをチェックする(専属広報・広岡勲)」



「どうだ、松井? 今のは内か?」

目をつぶってスウィング音に耳をすましていた長嶋監督が、松井にそう聞く。松井がどのコースをイメージして振ったのかを、確認しているのだ。

「監督のイメージと、松井のそれが一致すると、監督は静かにうなずく(広岡勲)」



「松井がその刀だとすれば、長嶋は身を削って砥石となって磨き上げた(Number誌)」






◎不動の4番



松井は潜伏期が長い選手でもあった。

「でも何かのキッカケで、いきなり良くなる」



その松井が巨人の4番を打つようになるのは、プロ入り3年後の1995年。だが、その座に定着するまで、つまり「不動の4番打者」になるまでには、そこからさらに5年かかった。

「2000年の開幕戦で4番を任された松井は、この年はじめて、シーズンを通して『不動の4番打者』となった(Number誌)」



松井が「不動の4番」となったのを見届けると、長嶋監督は「自分の仕事は終わった」とばかりに、翌年(2001)、監督職を辞した。

さらにその翌年(2002)、松井も巨人を退団。巨人の日本一と3回の二冠王(本塁打・打点)を置き土産に、新天地アメリカに旅立つ。そして、ニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着ることになる。



「長嶋さんだって、向こうでやりたかった人だからね…」

長嶋監督は複雑な思いだった、と専属広報の小股進は話す。

「そのニューヨークに自分の魂が入った選手が行くわけだから、最終的に一番喜んでいたのは長嶋さんだったんじゃないかな…」






◎ニューヨーク



松井がヤンキースに入団したその一年目、長嶋監督は松井のもとを初めて訪れた。

その頃の松井は、アメリカの慣れない変化球にまったく振るわず、ニューヨークの地元紙からは「ゴロ・キング」と揶揄されていた。



「松井はどうしてる?」

JFK空港に着いた直後、長嶋監督はさっそく松井と連絡をとった。

「素振りはできるか?」

「ニューヨークで素振りですか?」と驚く松井。

監督は本気も本気。すでに伝統と格式高い超高級ホテル「プラザ・ホテル」、そのスイートルームを「素振り用」に確保してあった。



広いスイートルームに、松井のスイング音が響き渡る。

「いい音だ」

いつものように耳を澄ましていた長嶋監督は、静かにうなずく。

「自信をもて」



その後、松井は復調。

やがて、常勝軍団ニューヨーク・ヤンキースの中でも、松井は主力選手へと上り詰めていく。

2009年の全米No.1を決めるワールドシリーズでは、3本のホームランを打ってチームの勝利に大貢献した松井。日本人初のMVP(最優秀選手)に輝くことになる。









◎骨身



米メジャーの頂点に立った松井であったが、その翌年、ニューヨーク・ヤンキースは松井との契約を更新しなかった。

松井は満身創痍であった。2006年に骨折した手首。2007年に痛めた右ヒザ。2008年には左ヒザ。3年連続で手術を受けていた松井は、身体の各所に爆弾を抱えていたのである。



ニューヨークを去ることになった松井は、その後、一年ごとにチームを転々とする(2010エンゼルス、2011アスレチック、2012レイズ)。

去年(2012)5月、松井はようやくマイナーリーグの試合で「8ヶ月ぶりのフル出場」を果たす。

だが、削った骨身は、もう限界だった…。







「命がけのプレーも、ここで一つの終わりを迎えたんじゃないかと思っています」

2012年12月27日、松井は現役引退を表明。

いつもは強い言葉をあまり使わない松井であったが、この時ばかりは「命がけ」という言葉を使った。そこには彼の積年の想いが詰まっているようでもあった。



「彼は一度も自分の口で、勝ったとか勝利したとか口にしたことがないんですよ」と作家の伊集院光は言う。

それは「他者への労り」なのだという。ホームランを打った自分がいるのなら、そこには同時に「打たれた投手」もいる。その投手も、自分と同じくらい一生懸命だったのだ。だから、松井は「ホームランを打っても、ガッツポーズを決してしない」。

かつてのホームラン王「王貞治」も、松井と同様、相手投手を思いやって、ホームランを打っても喜びをあらわにせずに、淡々とベースを回るのが常だった。






◎孤独



時は少々戻り、松井がヤンキース、エンゼルス、アスレチックスと渡り歩き、最後のレイズへの契約が決まる前。

長嶋監督は、唐突に言い出していた。

「松井の素振りを見てみたい」



「ちょっと、振ってみろ」

この2人だけの素振りは、長嶋監督が2004年に脳梗塞で倒れてから初めてのものだった。

一心不乱に、何度も何度もバットを振る松井。



「いいぞ、松井」

そう声をかける長嶋監督は、18年前と何も変わっていないかのようだった。



最初の2人だけの素振りは、松井プロ2年目。その時は、長嶋58歳、松井20歳。

そしてこの時、長嶋75歳、松井37歳。



2人をよく知る人は、2人とも本当は「ずっと孤独だった」という。

「頑固で、ぶきっちょで、誰よりも誇り高い松井。本音を言わない、考えていることが分からない。そんな松井は、人に頼らない誰よりも自立した選手だった(Number誌)」

長嶋監督が現役で戦っていた頃の巨人も「群れることを嫌う個性派集団」であり、「そんな中でも、誰よりも孤高を持し、ひときわ超然としていたのが長嶋茂雄だった(Number誌)」。



松井が入った頃の巨人には「仲良しグループ」のような雰囲気があったというが、孤高の松井には、どうしてもそれに馴染めずにいたのだという。

そんな松井を、素振りに誘った長嶋監督。

そこで過ごした時間。

そして、経った18年という時。



松井の引退を知った長嶋監督は、「辞め方がアイツらしくていいな」とつぶやいたという。

一方、引退会見の松井は、「20年間で、最も印象深いシーズンは?」との問いに、「長島監督と2人で素振りをした時間」と淀みなく答えた。



「それをテレビで見ていて、涙が止まりませんでした」

松井がプロ入りした年から松井をサポートしてきた香坂英典の脳裏には、長嶋監督と松井秀喜の20年が、一気に蘇っていた。



硬い骨同士が、ぶつかり合うようだった2人。

それでも、お互いがお互いを、誰よりも理解し合っていた。

ともに、素振りの音を聞きながら…







(了)






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/23号 [雑誌]
「誇り高き歳月を超えて 長嶋茂雄・松井秀喜」

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