2013年10月16日水曜日

3連勝のち4連敗。近鉄バッファローズ「夢の跡」1989 [野球]




それまで近鉄バッファローズというチームに「日本一」はなかった。

それが1989年、その悲願に「あと一勝」というところまで肉迫することになる。

しかし…








その年(1989)のペナントレース、「河内(大阪)の猛牛軍団」は西武、オリックスとの三つ巴の死闘を制し、9年ぶりにパ・リーグを制覇。日本一を決める舞台への進出を果たしていた。

”いったいウェーブは何周したのか。鳴りモノもないのに、なぜあれほどの大音量が轟いていたのだろう。勝って喜んでいるはずなのに、怒号のごとき濁声、野次のごとき河内弁、汗のごとき涙が飛び交っていた(Number誌)”

あの年の秋、近鉄の本拠地「藤井寺球場」は沸点に達していた。胴上げの夜、藤井寺はかつてない喧噪に包まれていた。



そして、迎えた日本シリーズ。相手は巨人。

”当時、近鉄は唯一、日本シリーズで勝ったことのないチームだった。巨人を倒して日本一へ。藤井寺の熱は冷めるはずもない(Number誌)”

「おっ、阿波野やんけ。ワレ、今日は頼むで」

第一戦の先発は、近鉄のエース「阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)」。入団して3年目の25歳。3年間で85試合48勝。押しも押されぬ実績を積み上げていた。



阿波野は当時を振り返る。「みんなが僕の車を知ってましたし、こっちに向かって『今日は頼むぞ』って言ってくれるんですけど、緊張感は極限状態でした。」

”実際、阿波野は極度の緊張と肉体的不安(腰とヒジ)から、思うようなピッチングができない。ストレートが走らず、パリーグの奪三振王が三振をとれないのだ(Number誌)”

2回にはホームランを食らい、4回までに3失点。それでも中盤以降、阿波野は変化球を軸にペースをつかみ、味方の援護から7回には4−3と逆転。阿波野は最後まで投げ切って、近鉄に白星をもたらした。

阿波野は言う。「いきなりやられると悪い流れになるし、ズッコけるわけにはいかないという責任感もありました。藤井寺のブルペンは目の前がスタンドで、そこに殺気だったお客さんがいるんで(笑)」






本拠地・藤井寺球場で白星発進した近鉄は、続く第2戦(藤井寺)、第3戦(東京ドーム)も巨人を斬りしたがえ、開幕から3連勝。河内の猛牛軍団は大いに猛っていた。

日本一まで「あと一勝」

そんな楽観ムードのなかだった。”あの発言”が飛び出したのは。



「巨人はロッテより弱い」

その言を吐いたのは、第3戦で勝ち投手となっていた「加藤哲郎」。そのヒーロー・インタビュー、お立ち台の上でのことだった。

しかし実のことろ、加藤はそうは言っていない。こう言ったのだ。「打たれそうな気ぃしなかったんで、たいしたことなかったです。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね。相手も強いし…」

だが、その言葉が報道によって独り歩きし、「巨人はロッテより弱い」に落ち着いてしまったのであった。



とはいえ、加藤の言葉は近鉄みんなが暗に感じていたことだった。開幕から負けなしで3連勝した日本シリーズにくらべれば、「パリーグでロッテと戦うより気楽やった(吉井理人)」。

それでも、選手らは「言い過ぎたんちゃうか…。加藤さん調子に乗ったな」「相手もあることやし、その辺にしとけ」と、加藤の浮かれ調子を危惧していた。






そして、日本一への王手。

第4戦(東京ドーム)

近鉄のエース・阿波野は、なぜか先発から外れていた。



「1、2、3と勝っちゃって、ウチの監督の仰木さんが突然『池上でいく』と言い出した」。権藤ピッチング・コーチは、そう回想する。

権藤コーチは「絶対に阿波野でいくべきだ」と監督に言い張った。「そうしたら、阿波野はヒジ痛のことを言い出したので、最後は仰木さんを『小野に決まっとるじゃないですか!』と一喝して、ようやく小野で落ちついたわけです」

だが小野は第4戦、6回途中でノックアウト。近鉄打線は巨人の香田に完封され、結果「0−5」で敗れた。



「あれでみんなが『流れはあっちへ行ってしもたな』と感じたと思います。一度流れが変わってしまったら、なかなか引き戻せないんですよね(近鉄投手・吉井理人)」

とはいえ、近鉄の3勝1敗と、巨人が崖っぷちに立たされている状況に変わりはなかった。






第5戦(東京ドーム)

先発の阿波野は5回で交代。

「あの日は調子もすごく良かった」と阿波野。「行くぞという気持ちだったんで、『あ、交代するんだ』と…。今まで1対2のスコアでマウンドを降りたことがなかったんで、全部出し切れてないというかア然としました。まぁ、怒っているようにも見えたかもしれません」

7回裏、近鉄1点ビハインドの状況で「吉井理人」がマウンドを引き継ぐ。



吉井は、満塁で巨人の原辰徳を打席に迎えた。

この年の日本シリーズ、原は「極度の不振」に喘いでいた。”第1戦で4番を打った原辰徳は、第2戦では5番、第3戦では7番に下げられ、3試合で10打数ノーヒット(Number誌)”。

吉井は振り返る。「いや、ナメてませんよ。調子は悪くとも一発あるのが原さんだし、いいところで回ってくる天性の何かも持ってる」

権藤ピッチング・コーチも原を警戒していた。「原からは徹底的に逃げろ。打たせると勢いに乗るから、歩かせてもいいぞ」



それでも吉井は、振るわぬ原を簡単に追い込めた。ツーボール、ツーストライク。

そして次の5球目、「インコースのストライクを狙い過ぎて、ド真ん中に行っちゃったんです。ええとこに投げようとしすぎたんですね」と吉井。

それを原の慧眼が見逃すはずはなかった。原の打球はレフトスタンドに届いた。



その瞬間だったという。阿波野が初めて危機感を抱いたのは。

「あぁ、ジャイアンツを完全に起こしてしまったな…」

阿波野は語る。「それまでの原さんは、調子が上がらず凡退を繰り返していたわけですよね。でも、本来の4番バッターが打った。核となる選手がああいうところで一発を打つと、チームは生き返るんです」






原の一発で目を覚ました巨人は、そのまま連勝の波にのった。そして、3連敗のち4連勝で、日本シリーズを制した。

近鉄ファンにとっては3連勝のあと、悪夢の4連敗。

眠れる原を起こしてしまった吉井は、こう振り返る。「僕らが一番だと思っていたら、一番じゃなかったんです。”慢心したら負けへの道が待っている”ということを、身をもって知らされました…」



巨人が優勝を決めた第7戦、それは近鉄の本拠・藤井寺球場(大阪)での決戦だった。その歓喜の胴上げを、河内のファンはその眼前に見せつけられたのである。

阿波野は言う。「手が届きそうなところにあったの日本一のゴールが、まさに直前で敗れたんで、その分、諦めきれない悔しさがありました…」



結局、近鉄は日本一になれないまま、その歴史に幕を下ろす(2004)。

いまから24年前の1989年、熱狂の渦中にあった藤井寺球場。だがもう、いまは跡形もない。



あるのは、「白球の夢」と名付けられた少年のモニュメント。

ボールの上に座って頬杖をつくその少年は、「兵どもが夢の跡」をただぼんやりと夢想しているかのようである…。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/17号 [雑誌]
「運命を狂わせた綻びの連鎖 '89年 近鉄×巨人」


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