2015年2月3日火曜日

ソチ18日間、ともに流した涙 [鈴木明子]


バンクーバー五輪では8位

あれから4年

28歳、2度目のオリンピック



女子フィギュアスケート
鈴木明子(すずき・あきこ)

引退を宣言してのぞんだソチ五輪。
団体戦では日本チームのキャプテンを任された。



鈴木は言う。

「バンクーバー五輪のときは、女子は後半の種目なので、自分の試合をしたらすぐ五輪が終わってしまいましたが、ソチでは五輪全体を見ることができるので楽しみでした」










■ 羽生結弦



2月6日、団体戦がはじまった。

応援席にいた鈴木明子は、いつになく楽しい気持ちでいた。

「私自身、思った以上に観戦を楽しみました。だって五輪をあんな近くで見るチャンスないですから。普段は、男子の演技はホテルのテレビで見る程度なので、普段の何倍もドキドキしましたよ」



日本のトップバッターは羽生結弦(はにゅう・ゆづる)。

オリンピック初出場となる19歳がスタート位置についた。

すると...

「ロシア! ロシア! ロシア!」

四方から野次が浴びせかけられた。



鈴木は言う。

「まるでサッカーのワールドカップのように母国だけを応援する。フィギュアスケートでこんなに”アウェイ感”を感じたことがなくて、『会場がこんな雰囲気になっちゃうの!』って驚きました。でも結弦は19歳なのに全然動じずに堂々として、『スゴイな、この子...』って、ただ感心しました」

フィギュアスケートでは通例、国にかかわらず全選手に温かい声援を送る。しかし、このロシアの地はまったく違う、異様な雰囲気だったという。

それでも動じぬ羽生結弦は、4回転ジャンプを成功させて首位に立った。



演技後、野次は気にならなかったのかと、鈴木は羽生を気づかった。ところが、羽生の答えは意外なものだった。

鈴木は言う。「『ロシアー』の声は、『ユヅル〜』に聞こえて気にならなかったって言うんです。それで二度びっくり。私自身は、バンクーバー五輪で自分の演技を思い出せないほど興奮していたのに。これだけ冷静に自分のペースに持っていけるような子が、最後に勝つんだろうな、と思いました」

羽生はむしろ、これから演技する鈴木を気づかった。

「6分間ウォーミングアップの時に声援が大きすぎて、『残りあと1分』のコールが聞こえにくいから注意したほうがいいよ」










■ 高橋&木原ペア



同じ日、ペアの高橋成美&木原龍一組が五輪デビューをかざった。

鈴木は言う。

「(木原)龍一は、彼が5歳でスケートを始めた時から知っています。ペアに転向して、慣れないアメリカでのトレーニングにも弱音も吐いていたけれど、よくぞ耐えたなと」



高橋成美は2シーズン前まではカナダ人とペアを組んで世界選手権3位にまで上り詰めた。しかし怪我でペアは解消。そして2013年、ペア未経験だった木原龍一が一大決心でペアに転向。タッグを組んだのだった。

鈴木は言う。

「演技に出ていく瞬間に龍一が私を見たので、『うん』と大きくうなずくと、龍一も『うん』ってうなずき返して、その頼もしさに泣いちゃいました。(高橋)成美ちゃんもペア未経験の龍一をよく引っ張って創り上げたなと。2人の演技には、胸が熱くなって目が潤みっぱなしでした」






■ 浅田真央



2月8日、女子のショートに浅田真央が登場した。

しかし浅田は、練習での好調ぶりとは裏腹に、トリプルアクセルを失敗、転倒。3位にとどまった。



鈴木は言う。

「(浅田)真央が『みんなゴメンね!』と謝ってきたので、私たちは『全然気にしないで! これで雰囲気がつかめたし、次、頑張ろう』って」

あくまで日本チームは明るかった。



鈴木は続ける。

「団体戦は皆の演技から感じ取るものが多くありました。緊張して、それでもリンクに出ていき、練習してきたことをやる、というひたむきな姿勢を見ていて、私も精一杯やろうと。町田(樹)君は初めての五輪なのに、彼らしく滑っていた。(羽生)結弦も含めて男子2人からはアスリートとしての強さを感じ取りました」






■ 小指



2月9日
団体戦の女子フリー

鈴木明子はあと一息、思い切りがない演技で4位となった。



鈴木は言う。

「どのジャンプも詰まった降り方になりましたが『みんながいてくれるんだ、絶対に転ばない』と、とにかく転倒だけはしませんでした。ベストな点ではありませんでしたが、みんなから『よく踏ん張ったね』と言われて、今やれることはできたなと納得しました」

じつはこの時、鈴木の両足小指には炎症があった。

ジャンプを跳ぶのすら精一杯だった。






■ アルメニア



団体戦は総合5位で幕をとじた。

次の個人戦、女子の試合は10日後ということで、鈴木は浅田とともにアルメニアへ短期合宿にむかった。



鈴木は言う。

「ソチにいると練習時間が全然とれませんし、選手村では気持ちが高まっている状態が続いてしまうので、一回は緊張感を抜くための合宿でした。宿泊したホテルのキッチンで和食をつくって、真央や佐藤信夫先生たちと一緒にご飯を食べました」



しかし、両足小指の炎症は悪化の一途。

団体戦での無理がたたり、腫れあがった小指は親指よりも太くなっていた。

それでも練習をつづけた。



鈴木は言う。

「五輪の直前に練習を休むのは怖くて...、無理に練習していました。最初は真央と一緒に練習していたけれど、私は練習中に泣いたり叫んだり...」

滑りはじめる途端、あまりの痛みに悲鳴があがった。それでも数十分滑っていると、足が麻痺して痛みを感じなくなってくる。その機を見計らって、ジャンプを繰り返した。なんとも無謀な練習がつづいていた。

鈴木は言う。

「長久保先生が『真央と時間をずらそう』と言ってくれて、別の時間に練習をしました。真央は自分の演技のために集中していましたから、泣いてばかりの私が一緒にいるのは申し訳なかったです...」






■ 男子個人戦



鈴木がアルメニアで苦しんでいる最中に、ソチでは男子シングルが行われていた。

アルメニアの女子チームは、全員が一つのテレビに見入った。



羽生結弦はショートで世界最高点となる101.45点をマーク。首位発進。

続くフリーでも、羽生はミスを最小限にとどめ、日本男子初となるオリンピック金メダルに輝いた。



鈴木は言う。

「個人戦のショートは、団体戦よりもさらにオーラがありましたね。フリーは皆がミスをする空気感の中で五輪の怖さも感じたはずだけれど、最後の最後まで諦めず、めげなかった。ミスと言ってもちゃんと4回転まわりきって転んでいるところが結弦の強さ。私に足りない部分を改めて学びました」







高橋大輔は、鈴木同様、怪我をかかえてのオリンピックだった。右膝の悪化は見て明らかだった。

鈴木は言う。

「あの時の彼は、怪我もさまざまな過去も、自分のすべてを受け入れているように見えました。ジャンプのミスを忘れさせるくらい、あんなに晴れやかな優しい表情で滑っているのを見て、『あぁ、私もあんな風に滑りたい。私も自分を受け入れなきゃだめだ』と思いました」

ショートを4位で折り返した高橋は、フリーで万感の思いを込めた演技を披露した。

鈴木は続ける。

「大輔君は決して私のために演技しているわけじゃないけど、『今の自分がやれる限りの演技をやらなくてはならない』というメッセージを、大輔君の演技から感じ取ったんです」










■ 女子個人戦



女子シングルは波乱にみちた展開となった。

ショートプログラム、浅田真央はまさかのミスで16位。鈴木明子も連続ジャンプにミスがあって8位発進。



その 夜、高橋大輔から鈴木明子に一通のメールがとどいた。

”自分のスケートをして欲しい。返信不要”

鈴木は言う。

「彼が最後まで自分を貫いて演技したのを思い出しました。最後の五輪なのに怪我をしている自分を、私も受け入れなくてはいけない、って」



2月20日、女子フリー。

鈴木明子の演技も、残すところ最後の一曲となった。



心はすっかり定まっていた。

失敗にはとらわれなかった。

最高の笑顔でジャンプを成功させた。



結果は8位。

バンクーバー五輪と同じ順位であったが、その演技には4年分の重みが詰まっていた。

鈴木は言う。

「あの演技ができたのは、みんなのお陰だったと思います。大輔君が演技を通して大切なことを思い出させてくれたり、結弦が強さを見せてくれたり。そのすべてが胸にあったから、”自分の滑り”ができたんです」



浅田真央も踏ん張った。

トリプルアクセルを成功させると、全ジャンプを決める渾身の演技。ほぼノーミス。最後の瞬間、彼女の両目から涙がこぼれた。

村上佳菜子も「3回転+3回転」をショート、フリーともに決めて総合12位。






それぞれの演技が終わると、3人は自然と控え室に集まっていた。

鈴木は言う。

「もう、顔を合わせた瞬間に、3人で大号泣。ただ抱き合いました。真央に『あの状況からよくぞここまで。本当に素晴らしかったよ』って言ったら、真央が『明子ちゃんも、あんなに足がひどかったのに凄かった』って。アルメニアで私が気を遣っていたのを感じていたんですね。心の中でお互いのことを思っていたんです」

その場での記念撮影は、3人とも「顔がぐちゃぐちゃ(笑)」だった。



選手村に戻ると、高橋大輔が温かく迎えてくれた。

鈴木は言う。

「またその瞬間に大号泣です。大輔君があんなに顔をくしゃくしゃにして泣いているのは久々。彼とは長いこと一緒にスケートしてきていろいろな苦労をお互い知っているので、溜めていた気持ちが決壊してしまいました」



ともに戦い、ともに涙する。

チームジャパンの絆は、記録を超えていた。



アスリート自身は肌で知っている。

スポーツは結果がすべてでないことを。





■ リビングルーム



演技が終われば、彼女らは女の子。

選手村のリビングは和気藹々。



鈴木は言う。

「『なんで皆こんなに一緒にいるの?』っていうくらい。午前3時ころまで、日本から持っていった和食やお菓子を食べながら、おしゃべりしてました(笑)」

いろいろな話をした。

村上佳菜子はオリンピック前、「ソチで引退」と言っていた。しかし鈴木はアドバイスした。「佳菜子の辞めるときは今じゃないよ」と。村上も同意した。「私もこのまま辞めるのは悔しい」と。



そして、世界選手権への出場を迷っていた鈴木に、村上は言った。「真央と佳菜子が頑張る。明子ちゃんは点数とか気にしないで好きに滑っていいから、出て」と。

高橋大輔も言った。「頑張らなくていいじゃん。みんなはただ、明子ちゃんが(日本で)滑っているところを見たいんだよ。それに僕も頑張らない」

鈴木はこう振り返る。

「私は『良い演技ができない』という自分の気持ちだけで欠場しようとしていたのに、大輔くんは自分よりも応援してくれる人のことを考えていた。大輔君に諭されて恥ずかしいな、と思いました。だから、とにかく世界選手権で”自分の演技”をしようと思いました」






■ その後



2月24日

世界選手権の舞台に、鈴木明子は立っていた。

結果は総合6位。

有終の美をかざった。



そして3月

鈴木明子は正式に引退を宣言した。



プロ、そして解説者に転向した鈴木は、ソチ五輪を振り返る。

「(ソチでの18日間は)お互いの行動や演技、言葉から”気づかされる日々”でした。みんながいろいろな経験をしてきた苦労人だからこそでしょうね。本当は個人競技なんだから、お互いの演技を見なくてもいいし会わなくていい。でも不思議と一体感があって、何かを感じ合い、補い合う。それは全員が前向きなアスリートだからだと思います。全員が最高の結果ではなかったけれど、良いときは皆で喜び、悪いときは励まし合う。でも、深くは突っ込まない。良い距離感。19歳の結弦から28歳の私まで年齢も違い、町田くんのように急成長の人も、大輔くんのように長年日本を背負ってきた人も、いろんな人生が混じり合って、なぜかまとまるんですよ。こんな素晴らしい時代に、このかけがえのない仲間とスケートできて、私、『バンクーバーのあと引退しないで良かった』と、あの場に行ってようやく思えました」



最後に、鈴木はこう語った。

「フィギュアスケートって、私のように大して才能がなくても必死に頑張っていれば、順位とか点数とかを超えたものを感じ取れる競技。だから怪我とか葛藤とか、いろいろなものを乗り越えた先に見えるものを、結弦や佳菜子、さらに若い世代のみんなに見てほしいと思います。人生とか心を演技に映し出すことができる、そんな魅力的なスポーツなんです」

次の平昌(ピョンチャン)五輪は、後輩に託した。

「フィギュアスケートって、素敵な競技だなって。今はそれだけを感じています」












(了)






ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
鈴木明子「かけがえのない仲間と過ごした18日間」



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