2015年2月4日水曜日

高橋大輔の歩んできた道のり [フィギュア]



「岡山からモノすごく上手い人が来てる!」

まだ小学生だった織田信成は驚いた。

週末になると岡山から大阪へと来ていたその少年は「高橋大輔」。織田よりも一つ年上だった。



当時のことを織田は振り返る。

「リンクを使って伸びやかに踊る大ちゃんの曲かけ練習を、みんなで端っこに集まって見ていたこともあります。大ちゃんの凄さは、スケートで曲を表現するというよりも、むしろ”曲と一緒に滑っている”ということ。選手はそれぞれジャンプを跳ぶときに自分のタイミングがありますが、大ちゃんは曲に合わせて、ここは早く助走に入るとか、別の場所ではゆっくり曲を待ちながら助走をするとか、タイミングを自由自在に操って、すんなりとジャンプを跳ぶことができるんです」

3回転や4回転という難しいジャンプになればなるほど、選手は”自分のタイミング”で跳びたくなるというが、高橋はあくまでも曲が先にあったという。

織田はつづける。

「大ちゃんはいつも曲をしっかり聞き、曲に合わせて跳んでいる。彼の中にはまず曲があり、そこからジャンプが生まれてくるんだと思います。だから、ジャンプが演技にマッチしてなめらかに滑ることができるんです。僕なんて、曲を聞かずにジャンプを跳んでいましたからね(笑)」



織田が高橋について思い出すとき、お互いが10代だったことが頭に浮かぶという。

「お互いにドキドキしながら少しずつ話をしたりしたこと、懐かしいです。大ちゃんは先輩ですが、いつも優して、ご飯を食べに行ったり仲良くしてもらいました」










■ 怪我



鋭い感性

豊かな表現力

世界一と言われたステップ



そうした持ち味を武器に、高橋大輔は世界の階段を駆け上がった。

そしていよいよ、オリンピックでのメダルが視野に入ってきた。

だが、その矢先(2008年10月)、練習でトリプルアクセルを跳んだ高橋は、無理な体勢で踏ん張ってしまい”右ヒザ”を怪我してしまった。



トレーナーだった渡部文緒は言う。

「その日、長光歌子コーチからの電話でケガを知り、大輔とも話をしました。その時点で大輔は、間近に迫っていた中国GPは欠場になっても、11月末のNHK杯には復帰できると考えていたようです」

ところが検査の結果はもっと残酷だった。

”前十字靭帯と半月板の損傷で手術が必要”

渡部は言う。「右足は大輔がジャンプを着氷する足でした。このケガは、手術をしなくても真っ直ぐ走る状態までは治すことはできますが、切り返したり踏ん張ったりするためには、手術をするしかない。氷上への復帰まではおそらく6ヶ月。以前のコンディションに戻るまでにはどのくらいの時間が必要か、その時は私にもわかりませんでした」



手術は12月の中旬に終えた。

そして始まったリハビリ。地味にコツコツ、決まった時間に決まったメニューを繰り返さなければならない。いつものメリハリのある練習とは違い、気の滅入る毎日だった。高橋の表情は、相当行き詰まっているように見えたという。

「そしてある日突然、大輔と連絡が取れなくなりました。リハビリの予約時間に現れず、家にも帰ってこない」と渡部。極度の心配がつのりながらも、とにかく待つことにした。

「長光コーチとも話し合い、『とにかく信じるしかない。帰ってきたら叱るのではなく、受け入れよう』と。子どもの時から大人に囲まれ、なかなか自分の意見が伝わらなかった大輔にとって、こうした葛藤も必要だと思っていたからです」



そして2週間後、高橋はふらりと戻ってきた。

渡部は言う。

「『もう逃亡するなよ』と冗談にできるまでは、しばらく時間がかかりました(笑)」










■ 復帰



ケガの後、はじめて氷に乗ったのは2009年の4月。

バンクーバー五輪まで、あと10ヶ月という時だった。



渡部は言う。

「ジャンプの許可がでたのが6月。ところがシングル・ジャンプすら転倒してしまいます。フィギュア独特の、加速してひねりながら跳ぶという動きに体がついていかないのです。跳べる身体ではあったのですが、怖がりの大輔は跳ぶことへの怖さから腰が引けてしまい、転ぶことの繰り返し」

渡部は「2回転くらいはスムーズに跳べるだろう」と予想していたが、それは完全に裏切られた。こんな状態で、3回転や4回転など跳べるようになるのだろうか? 不安は募る一方、オリンピックは近づくばかりであった。



そして迎えた復帰戦

2009年10月フィンランディア杯

渡部は言う。「転倒はあったものの、優勝することができました。”人前でまとまったものを滑れるようになったな”と私がホッとできたのは、この時です。五輪まであと4ヶ月。あとは大輔やスタッフみんなで『必ずできる』と信じ切って進むしかありませんでした」










■ バンクーバー



目標は「オリンピックの金」

ケガをしようが、それは変わらなかった。



しかし、結果は銅メダル。

それでも日本男子フィギュア初の快挙であった。



渡部は言う。

「フィギュアスケートで日本男子初となるメダルはもちろん嬉しかったですが、終わった瞬間、会場で感じたのは悔しさでした。あんなに練習してきた4回転も失敗してしまいましたから。でも、あの怪我の術後1年あまりで銅メダルをとるなんて、奇跡としか言えません」



バンクーバーでの悔しさは、同年3月のトリノ世界選手権へと向けられた。

”日本人男子初の世界王者”

そのタイトルを高橋大輔は手に入れたのだった。










■ 引退



現役生活は20年にまで及んでいた。

その間、出場したオリンピックは3回。



2014年10月

高橋大輔は引退を宣言した。



その会見の席上、高橋は言った。

「バンクーバーの表彰台の景色は、今でもすぐに思い出せます。旗が上がっていく…、国家は流れなかったけど、旗が上がっていくところは鮮明に覚えています。バンクーバーでは怪我があったからこそメダルが獲れたし、自分を見つめ直して体をつくろうと思えた。ケガは大きなチャンスになります。諦めずにその大変さを楽しめば、その経験は自分のものになって、自分の幅を広げることができますから」



現役最後の演技となったソチ五輪。

フリーの曲は「ビートルズ・メドレー」

高橋は言う。「終盤の”ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(The Long and Winding Road)”は、いつも暖かい気持ちで滑っていました。あのメドレーに出会えて、現役生活最後があの曲で良かったと思っています。(振付師の)ローリー・ニコルからは”感謝”というテーマをもらいましたが、僕自身、いつもそういう気持ちを持っていたので、ファンの方々に伝えることができてありがたかったです」






♩ The Long and Winding Road ♩

うねりながら、どこまでもつづいていく道のり

高橋大輔が必死に拓いた道のりに、いまや多くの若手たちが続いている。



最後に、織田信成はこうねぎらった。

「大ちゃんは誰よりも日本を背負って立つ意識も強かっただろうし、”自分が頑張らなければ”というプレッシャーもあったはず。ちょっとスケートから離れたいというのも聞いていたので、今はとにかくゆっくり休んでほしい。でも、休んだ後はスケートリンクに戻ってきてほしい。大ちゃんにしかできない、大ちゃんのスケートを楽しみに待っているファンも大勢いますから!」











(了)






ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
高橋大輔「The Long and Winding Road」



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