2015年3月10日火曜日

ブラジルで走り続けた日々 [三浦知良]


「カズ」こと三浦知良がブラジルに渡ったのは15歳のときだった(1982)。

ブラジルの名門、サントスFCとプロ契約を交わしたのは1986年、19歳のとき。だが、まったくいいところが見せられず、地元の新聞からは酷評されるばかりだった。

”日本に帰ったほうがいい”

出場機会は2試合にとどまり、10点満点中2点という最低評価がくだされた。






■不安



先の見えない不安のなかに迎えた20歳。サントスFCからマツバラへと移籍した。

当時のことをカズはこう語る。

「(クラブに用意されたホテルは)3畳一間の小屋みたいなところ。街(カンバラ市)の人口は1万人で娯楽が何もない。歓楽街もなくて、散歩して街道に出るとすぐに街外れになっちゃうぐらいの小さな街。だから生活自体は退屈で耐えられなかった。一日がすごく長くてね。りさ子からの手紙が唯一の楽しみだった。でも、楽しみにしているときに限って郵便局がストになって、3ヵ月届かなかったりしてね。あとは、部屋のテレビで『ひょうきん族』や『たけしの元気が出るテレビ』の録画を見るくらいだった」

休みになるとカズは、ブラジル随一の大都市サンパウロへと飛んだ。バスだと片道6時間かかるところ、飛行機なら1時間でいけた。

「風が吹くと着陸をやり直したり恐かったけど、1時間で帰れるならと乗った。『いっぱいだからダメ』と断られても、練習に間に合わないからどうしても飛行機で戻らなくちゃならない。だから自分のセイコーの腕時計をカウンターで渡して、強引に乗せてもらったこともあった。席がいっぱいだから、後ろ向きで乗り込んだりしてね」

カズが「命がけだった」と言うように、6人乗りの小型プロペラ機はひどく揺れた。



田舎町のカンバラ市からアウェーへの移動となると、じつに過酷だった。

「往復で40時間以上バスに揺られて、日帰りで試合なんてこともあった。帰りはバスの通路にクッションを敷いて寝たりしたこともある。だから、10時間で行けるところなんて近いと思った」

悪路の中、バンクなど日常茶飯事。片道だけで2回もパンクすることもあった。






■試合第一



1987年9月、カズはCRBに移籍した。

「どんな小さなクラブでも、大きなクラブと変わらず当たりは激しい。みんな本気なんです。1試合で何回も激しく削られる。小さくても地元の新聞には良いプレーは評価され、悪ければ酷評もされる。どんなに安くても勝ちボーナスはあったので、みんなが必死だった。グラウンドはめちゃくちゃだし、豆電球しかないようなところで練習試合をやったり、野原みたいなところで招待試合をしたりもしていた」

CRBのあるマセイオは海辺の大都市。40℃を超える日がつづくことも珍しくなかった(年平均気温は25℃と高温)。肌は自ずと真っ黒になっていた。

「日本人はサッカーが下手だというイメージがあるから、『あれ、案外こいつ上手いじゃないか』、『おもしろいプレーするな』ということで、マツバラでもCRBでも人気がすぐ出たんですね。またぎのフェイントとかやるとみんな喜んでくれて。そういう意味では、自分自身は成功したなと感じていた。でも一方で、『ここじゃダメだ』、『ここじゃダメだ』とずっと思っていました」



当時のカズが目指していたのは、サンパウロ州選手権(カンピオナート・パウリスタ)への出場。ブラジルで最もレベルが高いとされていた大会だ。テレビ放映もあり、ブラジル全土からの注目度がきわめて高かった。

「上に這い上がっていくには、やっぱり『サンパウロ州選手権までいかなきゃダメだろう』と思っていたんです」

そう思い極めていたカズは、CRBから持ちかけられた翌年の契約を断った。月約40万円というチーム最高額を提示されてなお。そして月3〜5万円という低給のキンゼ・デ・ジャウーを選んだ。このチームはサンパウロ州選手権1部への出場が決まっていたからだ。

「ブラジル人にとってはお金は重要だけど、僕はブラジル人とは違うから、そのあとで、いつか稼げばいいと考えていた。いまは力をつけるときだ、試合にたくさん出て、活躍したいとひたすら思っていた。お金のことなんて、まったく考えなかった」

あくまでも「試合に出ることが第一義」。そのためにはどんな苦労も苦労とは感じられなかった。



「常に不安はありましたよ。それを解消するために、ひたすらトレーニングをして、走ったんです。クラブが休みの日も自分で走った。だから今も、休みでも走るという習性がついているんです。練習が休みでも、とにかく走れる場所をみつけては走る。公園でも、山でも。ジャウーの時代もそうだけど、『夜、ひとりで走っているヤツがいたら、それはカズだ』って言われていたぐらいだから」

漠とした未来への不安を打ち消さんと、カズはひたすら走った。

「自分はどうやって上に上がっていけばいいんだ? 挫折じゃないけど、絶望的にもなった。それでも練習を続けているうちに、急にどこかで伸びたんだろうね。知らないうちにステップアップはしていたんです。いま振り返れば、『力をつけた一年』だったんだと思うんです」



キンゼ・デ・ジャウーに入ったカズは1988年、サンパウロ州選手のコリンチャンス戦で決勝ゴールを決める。全国放送されたことで、日本人カズの名は一気にブラジル中に響き渡った。

それから2年後、1990年にカズは日本へ凱旋帰国した。

「日本代表でワールドカップに出るというのが目標だったから、それには日本リーグに行くしかない、という考えを持っていた。当時は、外国でプレーしている選手を日本代表に呼ぶというスタイルがなかったからね。だからワールドカップを考えたら、いずれは日本に戻らなければならないと当時から思っていました」

その後の日本での活躍は、言うまでもない。










■礎



2015年、カズのプロ生活は30年目に突入した。

ブラジルにいた20歳のころの写真を見ながら、カズはつぶやく。

「47歳の今も、20歳のときと情熱はまったく変わっていない。あの頃のひとつひとつの経験は本当に重かった。それが今の自分をつくった礎になっていることは間違いない」



そんな20歳の頃の自分に「どんな言葉をかけたい?」と問われ、カズはこう答えた。

「あんまり調子に乗るな、と言いたいね(笑)」










(了)






ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
三浦知良「20歳の自分が、47歳の僕の礎になっている」



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