2015年5月16日土曜日

フォルランと日本のサッカー



ディエゴ・フォルラン(35)

2010南アフリカ、サッカーW杯で「得点王」と「MVP」に輝いた、ウルグアイの英雄だ。





そのフォルランが、マンチェスター・ユナイテッド、アトレティコ・マドリーなどのビッグクラブを経て2014年、セレッソ大阪に加入した。

加入会見では流暢な日本語を披露し、日本中を驚かせると同時に、大きな期待を抱かせてくれた。

当時のことを、フォルランはこう振り返る。

フォルラン「日本で生活をはじめた頃はとても幸せだった。生活のクオリティは高いし、人々はとても親切だから。毎日なにもかもが新鮮で、地球の反対側にいるなんて意識することもなかった」



しかし、フォルランは日本の大きな期待に応えることができなかった。シーズン序盤は好調だったものの、半ば以降は山口蛍の離脱もあり、チームの状態は明らかに低迷していった。

”優勝候補だったセレッソ大阪は2部へ降格。フォルラン自身もシーズン終盤、ベンチから外れることが多かった(Number誌)”

その失意のシーズンが終わった直後、フォルランはウルグアイのTV「エル・オブセルバドール」に出演。日本のJリーグでプレーした印象や、試合に出られたかった葛藤を、率直かつ饒舌に語った。

フォルラン「チームの役に立ちたかったけど、残念ながら私は3ヶ月ほとんど試合に出られず、ベンチに入れないこともあった。試合に出られなくなると、100%幸せとは言えなくなった。あの頃は悲しい気持ちでいっぱいだった。そもそもサッカーに『化学』なんて存在しない。状態の良い選手を起用するというシンプルなスポーツなんだ」



”サクリフィシオ(犠牲心)”

この言葉をフォルランはよく使う。

フォルラン「毎日生活していれば、やりたいと思うことが出てくる。でも私たちプロ選手はサッカーに取り組む責任があるのだから、多少やりたいことを我慢してもサッカーに専念する。その精神がサクリフィシオ(犠牲心)なんだ」

だが、日本人選手はこの言葉を「酷暑の中で練習すること」と誤解している、とフォルランは言う。

フォルラン「サクリフィシオとは、つらい状態に耐えたり我慢したりすることとは違う。サッカーは理論で割り切るんじゃなく、”感じる”ことが大切なんだ。選手とは誰かに創られるものでもないし、生まれるものでもない。たとえ才能があっても、自分自身で一生懸命練習をしなければ、優秀なプロ選手にはなれない。プレーすることに幸せとパッションを感じつづけている必要があるんだ。そのための努力がサクリフィシオだと思っている」

フォルラン「だけどJリーグを見ていると、サッカーを仕事のように感じている選手が多い印象を受ける。確かに私たちプロはサッカーでお金をもらっているけど、会社に行ってタイムカードを押し、8時間働いてお疲れさま、という職業とはまったく違う。天職という以上の感覚を抱き、つねにパッションをもって取り組むべきものだと思う」



サッカー一流国の遺伝子を受け継ぐフォルラン。

日本代表の姿は、彼にどう見えているのか?

フォルラン「そうだね…、私に言えるのは、日本がワールドカップに優勝するのは今は難しいということ。もちろん夢をもつことは自由だ。でも、自分の限界も知るべきだと思う。たとえば私が月へ行きたいと言うことはできるけど、果たして実際に月にいける可能性はどれくらいあるだろうか。夢を見ることと、実際にその夢を実現することは別なんだ。日本サッカーは、まずは基礎づくりから始める必要がある。そして経験を積み、目標を定めて達成していく。エスカレーターに乗っても、一気に10階までは到達できないだろう? でも1階ずつ上がっていけば、いつかは10階にたどりつくことができる」

フォルラン「人口は日本の約4分の1のウルグアイだけど、代表チームにはルイス(・スアレス)やディエゴ(・ゴディン)など、世界の舞台で活躍するエリート選手がそろっている。そんなウルグアイでも、W杯の決勝まで進むのはとても大変なこと。サッカーで夢をもつのはいいことだけど、同時に現実主義者にもならなければいけない」

フォルラン「1シーズン、Jリーグで一緒にプレーしてわかったのは、日本の選手はうまいということ。みんなとても上手だよ。だから彼らに何か言葉で伝えるのではなく、私は試合でベストを尽くそうとだけ考えている。それを見て必要なことがあれば、彼ら自身が取り入れればいいし、同じように私も、セレッソのチームメイトを見て何か学んでいくと思う。何かを学ぶというのは選手次第だからね」





フォルラン「昨年はもちろん(J1で)優勝したいと思っていた。でも結果は2部降格だった。思い描いていた現実とは異なるけど、ベストを尽くして前進していくのみだよ。人生とはさまざまなことが起こるものだから」

今季のフォルランは、順調に得点を重ねている。4月1日のジェフ戦でのゴールは、フォルラン自身も「ゴラッソ(素晴らしいゴール)」と呼ぶ、美しいものだった。






試合後、記者にこんな質問を受けた。

「後ろからのパスで、ゴールの位置もよくわかっていなかったのでは?」

するとフォルラン、ムッとした表情でこう答えた。

フォルラン「私のサッカーキャリアを通じて、ゴールの位置を頭に入れずにプレーしたことなど一度もない」













(了)






ソース:Number(ナンバー)876号 イチロー主義 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
ディエゴ・フォルラン「日本サッカーに伝えたいこと」



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2015年5月14日木曜日

41歳の新天地 [イチロー]



「イチローはなぜ、マイアミ(マーリンズ)を選んだのか?」

地元メディアの一番の疑問だった。イチローのようなレジェンドがなんで、わざわざマイアミへ?

”彼らの疑問も仕方がない。1997年、2003年にワールドシリーズを制したものの、マーリンズの対外イメージは、極端な補強と放出を繰りかえす異色の新興球団(Number誌)”

「まさか本当に来るとはね。最後までア・リーグでプレーするものと思っていたよ」

イチローの加入は、まさに青天の霹靂だった。



アメリカ大リーグ全30球団の中でも、マーリンズで日本人選手がプレーするのはイチローが初めて。1993年に創設されたマーリンズの歴史はまだ22年。

”その成績を見ていくと、なかなか興味深いものがある。プレーオフに進出したのは、22年間で1997年と2003年の2回だけだが、いずれも地区2位、ワイルドカードだった。しかもその2回のチャンスで、いずれもワールドシリーズで優勝しているのである。地区優勝をしたことはないが、ワールドシリーズ制覇は2回というわけだ(Number誌)”






突如、マイアミに現れたイチロー。

周囲の目は、彼の一挙手一投足へ釘付けになった。

5本指ソックス
ジュラルミン製のバットケース
小さなイボイボのついたマッサージ用ボール
専用のトレーニングマシン


”イチローを取材してきた日本人記者にはお馴染みのイチロー・アイテムも、彼らの目には宇宙人が持ち運んだ未知の物体に映るようだ(Number誌)”

「あの”折りたたみの携帯電話”、すごくクールよねぇ」

「いろんなスポーツを取材してきたが、見たことがないようなマシンを何台も、コンテナで持ち込んだアスリートは初めてだ」

「バットの重さが湿度で変わるだなんて野球選手が話すのを聞いたことがない」



球団GMのジェニングは感心していた。

「チーム全員がイチローの行動を見入っている。ロッカールームでの行動はまるで時計のようだ」

チームメイトの期待も大きい。23歳の左翼、クリスチャン・イエリッチは言う。

「若い僕らには信じられないような実績を積んできた選手。戦力的にはもちろん、みんなにポジティブな影響を与えてくれるに違いない。それにしても、面白い人でびっくりしたよ(笑)」

イエリッチは9歳のときに、”イチローの2001年”を目の当たりにしている。日本から初めて米メジャーにやってきた野手イチローが、リーグMVPと新人王、首位打者と盗塁王、シルバースラッガーとゴールドグラブをいっぺんに獲得したシーズンだ。

イエリッチは続ける。

「彼がデビューしたばかりのころ、三塁へのモノ凄い送球を見てから、ずっと注目していたんだ」

その14年前から、イチローの体つきはほとんど変わっていない。遠投はチーム一番で、ストレッチの屈伸角度は誰よりも深い。昨季盗塁王のゴードンにも見劣りしない身軽さを維持している。

マーリンズのまとめ役、31歳のプラドは言う。

「あの”21歳”には、いつも驚かされるよ(笑)」



イチロー、41歳。

日米あわせて今季プロ24年目。

「新しいグラブって、いいよね」

新しいユニフォームを着て、新しいグラブをはめる。そのグラブを丁寧に磨きながらイチローは言う。

「トレーニングの設備も道具も進歩している中で、野球選手の寿命だけが昔と同じだったら、退化しているのと同じでしょう」

マイアミの記者団が驚いた、ダグアウト裏に設置されたイチロー専用のトレーニングマシン8台。試合中でもイチローはそのマシンで体を動かす。

「あのマシンは人間の能力を先に進めるものです。40歳を越えれば人間、黙っていても成長するということはなくなりますが、僕の周りには ”僕が発展途上になり得るツール” がいろいろとあります」

スパイクも今年は違う。新しい”ビモロ”のスパイクは、イチローのストライドを広げ、未知の領域へ誘う推進力を誇っている。



新天地、フロリダ州マイアミ

強い陽射しが照りつける下、イチローは海苔をまいていないオニギリを美味しそうに頬張る。

「このチームについても、街にしても、あまりに知らな過ぎて、重たい気持ちにはなりませんでした。中途半端に知っているところだと、余計な情報のせいでネガティブな気持ちになったかもしれませんが、まったく知らないという強みはありました」

自宅のあるシアトル、そして母国日本から最も遠いフランチャイズ。米メジャー14年のキャリアの中で、イチローがマイアミの地でプレーしたのは2005年に一度だけだった(旧スタジアムの時代だからまったく参考にはならないが)。ナショナル・リーグはこれまでと違ってDH制もない、まったく未知のリーグである。



NYヤンキースからの移籍を機に、イチローは今までとイメージを変えてきた。ユニフォームはもちろん、バットも黒から白、グラブも黒からオレンジ、スパイクもオレンジに。

「チームを移るというのは、そういうチャンスでもあります。誰が見てもわかりやすタイミングで何かを変える。そこを逃してしまうと、できなくなります。僕は変わることがまったく怖くありません。むしろ、そこに停滞してしまうことのほうが怖い。そうでないとやってられないんです。だって、形が決まるということは、自分の中でこれ以上ないということにつながりますから。そんなことはありえないんです。バッティングは永遠に終わらない。答えなんかないのがバッティングですから、そこにとどまっていたら、終わってしまいます」






◎代打(ピンチヒッター)として





じつは過去2年半、イチローはNYヤンキースで想像もしないストレスに見舞われていた。

”今日、試合に出られるかどうかわからない、試合中もどのタイミングで声が掛かるかわからない。準備をしても出番がないまま終わり、明日のこともわからない。一見きらびやかに見えるニューヨークの摩天楼が、イチローを押し潰していた(Number誌)”

レギュラーから代打(ピンチヒッター)に転向となったイチロー。代打には特有の難しさがあった。



NYヤンキースの打撃コーチ、ケビン・ロングは言う。「ピンチヒッター(代打)は、プロスポーツの世界でも屈指といっていいくらい難しい仕事だと私は思う。これまでレギュラーでプレーしてきた選手ほど、よいピンチヒッターになるためのアジャスト(調整)は難しい。代打への心構えは、レギュラーのそれとは全く違う」

マリナーズ時代の11年半、イチローの代打での成績は11打数1安打(打率1割未満)と振るわない。ヤンキース移籍後も2012年は6打数1安打(打率1割6分)、2013年の前半まで3の0だった。

ロングは言う。「そのころまでイチローは、代打としてどう準備すればいいのか、身体的にも精神的にもわかっていなかったようだ。でも、そこから先が彼の特別なところ。彼はヤンキースで与えられたこの仕事をマスターするために全力を尽くしてくれたんだ」



2013年の後半(7月以降)、イチローの代打成績は9打数5安打(打率5割5分)と劇的に向上。翌2014年も12打数6安打(打率5割)。ここ1年半、代打で5割以上という数字を叩き出していた。

ケビン・ロング「彼は自分なりの答えにたどり着き、成績を出した。去年のヤンキースにとって、イチローは間違いなく ”最高のピンチヒッター” だった。イチローという偉大な選手のパーフェクトなところは、こういうところに現れている。代打という役目を与えられたところで、ほとんどの選手はここまでしない。ベテラン選手は代打を嫌がり、価値のないものだととらえるケースがほとんどだ。イチローのように完璧に役割を果たすことはない。だからこそイチローは40歳をすぎても、イチローであり続けられる」



しかし、成績の向上した後半、イチローの悩みは深まっていた。

イチローは言う。

「去年、一番しんどかったのは、シーズンの後半になって『ようやくできてきた』と思ったときに出場機会がなかったことでした。それよりしんどいことはありませんでした」

夢見も悪かった。

「一つは、銃で撃たれる夢。撃たれるんだけど、実際に撃たれたことがないからよくわからない。ただ、夢の中では確実に死ぬって思ってるんです。そういう怖い夢のパターンがいくつかあった。空の上にロープが張ってあって、下は地獄なんですけど、そのロープの下を自転車で走る夢。他のパターンとしては、すごく好きだった人に久しぶりに会えて、泣いている夢。これは人間関係で気持ちがよくないときに出てくる夢です。自分の状態がわかりやすく夢に出てくるものなんだなと思いました」

体調管理も思うようにならなくなっていた。

「去年、ニューヨークではものすごく痩せてしまって。どれだけ栄養を考えた食事を食べても、体重が維持できないということがありました」










◎マイアミへ



「かわいい子たちが、どんどん売れていって、ちょっと大きく成長した犬は残っていく」

2015年1月、移籍先がなかなか決まらなかった心境を、イチローはそう表現していた。41歳というのはメジャー最年長。ここ数年、メジャーには”40歳定年”のごときチーム編成が行われるようになっていた。

「虚しさなんて、しょっちゅう感じています。でもそれこそが、成熟へ向けての道ではないですか。理不尽なことを経験しなかったら、人としての幅は出てきません。僕が来た当初、アメリカってこんなフェアな見方をする国なのかと思いました。最初の最初は偏った見方をされましたけど、結果をある程度残した後はそう思った。でも、ずっとやってくると、この国では一事が万事という価値観で考えるべきではないということもわかってきました」



そしてイチローは「マイアミ・マーリンズ」を選んだ。

「マイアミだけは考えていなかった(笑)。最初から絶対にないと思い込んでいたので、イメージもできていませんでした。でも話を頂いていろいろ考えると、NOという理由がありませんでした。僕は決断するときに後ろ向きな気持ちにはならない。ここはこれから色がついていく状態ですから、それは僕にとってはかなり魅力的です」



1月末に日本で行われたマーリンズの入団会見の席上、イチローはこう言った。

「これからも応援よろしくお願いしますとは、僕は絶対に言いません。応援していただけるような選手であるために、自分がやらなくてはいけないことを続けていきます」

日本ではお立ち台に立った選手がよく「応援よろしくお願いします」と言う。だがイチローは違う。

「食うか食われるかの世界で戦うアスリートが、応援ヨロシクはないよって、ずっと思ってきました」



その思いは、キャンプに着てきたTシャツにも込められていた。

”おうえんしてくださいなんて〜 いわないよじぇったい〜”

カジキ(マーリン)のカブリ物をした自身のイラストが、槇原敬之風にそう歌っていた。






◎Tシャツ



イチローにとってTシャツは大切なアイテム。

”説明なんかヤボだ。見て感じて、勝手に解釈してください”

イチローのTシャツは、そう訴える。



イチローは言う。

「最近、自分のことをしゃべるのってダサいなって強く思うようになってきたんです。自分のことを自分で伝えようとすればするほど、他人の心には残らない。本当に自分のことを伝えられるのは、じつは自分ではないと感じています」

”イチローは言葉をすごく大事にするが、言葉だけでは伝わらない空気も同じように大切にする。今キャンプでのTシャツの絵柄はユルめだ。なによりも主役のイチローがキャンプ地のほどよいユルさに身を委ねている(Number誌)”


鯖(サバ)のイラストに「OTSUKARE SABA(おつかれサバ)」

アディダスのロゴを文字って「ajidasu(アジダス)」

ラコステのワニをひっくり返して「OCOSITE(起こして)」



「いわないよ じぇったい〜」の別バージョンも。なんとバックプリントには「応援よろしくお願いします」の文字。

キャンプ最終日は、まさかの無地…と思わせて、背中に「これにておしまい」。

ヤンキースはなにかと制約の多いチームだったが、新天地マーリンズはずっとユルめだった。






◎ごく当たり前に



オープン戦 

敵地ブレーブスでの試合、イチローはいきなり魅せた。

一塁にいたイチローは、三塁線へのゴロを見ると、一気にスタートを切った。三塁手は一塁へと送球するが、その間、イチローは迷うことなく二塁を蹴った。あわてた一塁手、三塁へ返球するも、イチローは鮮やかに三塁ベースへと滑り込んだ。

「41歳のプレーじゃないね!」

味方ベンチはドッと沸き立った。

気温が30℃を超える酷暑のなか、現役最年長選手であるイチローが、華麗なベースランニングを披露したのだ。走力は年齢が最もあらわれやすい分野。過去の盗塁王の記録をみても、40歳をすぎて活躍した選手はほとんどいない。

試合後、イチローは言った。

「あんなプレー、滅多にしないですよ。単純に僕の練習です。スタートは切りたい、というのが理由です」

ひとつ先の塁を貪欲に狙う。その姿勢にチームメイトは目を見開いた。



「いい結果が出たときは、皆がいい感じで迎えてくれる。それはすごく気持ちいい」

大汗をかきながらイチローは言った。

”イチローは、こんなごく普通の野球環境に飢えていたんじゃないか。ごく当たり前の環境に気持ちを高ぶらせ、若いチームメイトと大いに盛り上がるイチローがいる。コーチたちまで巻きこんでけっこうな騒ぎだ。そのなかには満面の笑みで同僚たちを迎え入れる彼がいた(Number誌)”






◎何歳?



2015年4月16日

マーリンズの開幕戦

”イチローは、スターティング・ラインナップにその名を連ねていない。彼はチームと”4番目の外野手”として契約を交わしているからだ。開幕戦で与えられたのは代打の1打席だけ。結果、ファーストゴロに終わる(Number誌)”


その後、マーリンズは開幕3連戦を3連敗。イチローは3試合とも代打で出場して1安打。マーリンズの外野手3人は若くて守備力が高く、4人目のイチローの出番はそれほど必要とされていない。

イチローは言う。

「前に進もうとするのは、前向きな人間なら当たり前。後ろを向きたい人たちは、ここではやっていけないですから。変わりたいというよりも、壊していきたい(笑)。それが吉と出るかどうかはわからなくても、そうやって壊していく姿勢が、僕は好きなんでしょう」



”¿Que Paso?"

元気かとスペイン語で声をかけられたイチロー。英語でこたえる。

”I'm not playing today(今日は試合に出てないよ)”

”How did you do yesterday, three hit?(じゃあ昨日は? ヒット3本か?)”

”No no, Zeeeero!!"



「コンニチハ、サヨナラ」

3人目の外野手、マーセル・オズーナは片言の日本語をしゃべる。

”出身はドミニカ。クラブハウスでの笑いの渦には必ず彼がいる。イチローとも日本語とスペイン語でコミュニケーションをとっているようだ(Number誌)”

オズーナは言う。「じつは(日本語を)昨年から覚えているんだよ。今年はイチローに先生になってもらうんだ」

リーグ屈指の強肩オズーナ。そのバズーガ砲は、イチローのレーザービームとの競演も期待される。

「イチローと一緒にプレーできるのは喜び。本当にワクワクしているよ」



はたして、現役メジャーリーガーの41歳は、人間の寿命に換算すると何歳なのだろうか。

かつてイチローは、愛犬一弓(いっきゅう)を「人間なら何歳?」と問われて、こう答えている。

「イヌの10歳は10歳ですよ。なんで人間の年齢に換算しなきゃいけないんですか」













(了)






ソース:Number(ナンバー)876号 イチロー主義 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
イチロー「イチロー主義2015」



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2015年5月8日金曜日

山田満知子と伊藤みどり [フィギュア]



山田満知子(やまだ・まちこ)がフィギュアスケートをはじめたのは、5歳のときだった。

本当は父は、娘をバイオリニストにしたかった。しかし、交響楽団に連れて行ったら「小さすぎる」と断られた。それで、小さくてもやれるスケートを習わせることにしたのだった。



「まったく、ひどい有り様。少しも面白くないの」

幼少時の話をするときの山田は、すこし不機嫌だ。当時、まだ創成期にあったフィギュアスケートは一からつくっていく途中であったため、連盟の役員はじめ誰も指導のノウハウをもっていなかった。

「うちの父は公務員だったけれど、仕事から帰ってから辞書で調べていました。『どうもシットスピンというのは、こういうものらしい』とかね」

海外から持ち込まれた専門書を、なんとか翻訳しながらの指導であった。

「父が喜んでくれるからスケートを続けましたが、最後までヤル気は起きませんでした。いつも『辞めたい』って心の中では思っていました」

国体で優勝した山田であったが、「あの頃はやっている人が少なかったから」と彼女は言う。結局、彼女にとってのスケートは「退屈」の域を出ることがなかった。



それでも山田には夢があった。

「もし将来、自分がスケートを教える立場になったら、リンクを ”最高に楽しい場所” にしよう」

20歳になった時、知人からスケート教室を頼まれた。山田はそこで理想を体現した。その「誰もが笑顔でいられる教室」は大変に好評で、すぐに枠が増え、広がっていった。

指導者になってはじめて、「本当にやりたかったスケート」と山田はようやく出会えた。






そんなある日、5歳の少女がふらりとスケート教室を訪れる。

「すごいチビでねぇ、ちょこまかちょこまか動き回って、山猿みたいだった」

のちの五輪メダリストとなる「伊藤みどり」との出会いである。山田満知子、31歳のときだった。

「みどりはまさに自然児でしたから、ときどき思いました。アルプスの少女ハイジのように『この子は山の中を走り回っていたほうが幸せなのではないか』って」

2人の運命は、大須のリンクで交わった。






当時、伊藤みどりを取り巻く家庭環境は複雑だった。両親が離婚して母親に引き取られ、とてもフィギュアスケートを続けられる環境にはなかった。

そんな少女を見るに見かねた山田、頻繁に家に招くようになった。みどりが10歳の頃には、完全に同居するまでになっていた。

「ただ、幸せにしてやりたかった。みどりの能力、性格を知るにつけ、『あぁ、この子ならスケーターとして成功できるのではないか、幸せになれるんじゃないかな』と思ったんです」






伊藤みどりの才能は本物だった。当時の伊藤に対する日本の期待には、凄まじいものがあった。

「それは皆さん、期待しますよ。何度も言うけど、みどりは物凄い選手だった。あんな選手は日本で初めて。ほんとうにスゴイ。憧れちゃう。悔しいので、みどりの前ではあまり言いたくありませんが(笑)。当時、私はあの子の欠点ばかりに腹を立てていましたけど、昔の映像を見ると『わー、すごいな』って素直に思いますよ」

伊藤みどりへの世間の期待は、「世界一になって当たり前」というくらいに大きなものだった。そのため、その天才を「山田の元に預けておいていいのか」という疑問の声があがった。

「私はもともと著名な選手ではなかったですし、所属は設備の整わない名古屋のリンクでした。必死で全力を尽くしても、『世界一になって当たり前』という期待についていくのが一杯いっぱいでした。求められているのは、はるかに高いところだったんです」






日本スケート連盟は、山田に具体的な案を示した。海外のコーチに師事させる案もあった。

「みどりを名古屋から離そう、東京へ呼ぼうという話は、小学生の頃からありました。でも、その時はまだ早すぎた。みどりは扱いの難しい子です。一緒に暮らしていくのは悩みの連続で、苦労も多かった。私は親としてあの子と向き合い、一緒に物事を考えてきました。でも東京に出したら、そうはいかない」

山田は頑として連盟の申し出を受け入れなかった。

「それに、もしスケーターとしてうまくいかなかったら? あの子は見捨てられるかもしれない。そうなったら、いったい誰が責任をとってくれるのか。みどりは犬や猫ではありません。人間なんですよ。私は親として、申し出を断りました」



山田の姿勢が軟化するのは、伊藤みどりが中学生になってから。連盟からは相変わらず留学の話がきていた。

「私もそろそろいいのかな、みどりも一人でやっていけるかな、と思いはじめたんです。もっと自由にしてやるべきなのかもねって」

じつはこの時、日本スケート連盟はJOC(日本オリンピック委員会)の協力も得て、伊藤みどりの「金メダル」へのレールを十全に計画していた。



しかし、それを知ったみどりは大いに悩んだ。

「あの子は可哀想なくらい真剣に考えていました。私は、選手をなにがなんでも自分の手元に置こうとは思いません。よい道があって、その子が行きたいと言うのなら、そちらに行かせてやりたい。出会いがあれば、別れがあるの、人生って」



悩みに悩んだ伊藤みどりは、ついに泣きながら山田にこう言った。

「わたし、やっぱり名古屋から離れたくない。このままずっと、先生とスケートをしたい。これからも、先生のところにいさせてください!」

そして自ら、連盟に断りの電話をかけた。






すると連盟は逆ギレした。

山田は言う。

「部屋に行ってみると、みどりはわんわん泣いていました。2度断ったのに受け入れてもらえず、あげくは『そんなに反抗するなら試合に出さない』と言われたらしかった」

泣きじゃくるみどり。

「先生、どうしよう。わたし、もう試合に出られない!」

”親”として、山田は激昂した。

「私は怒りました。かーっとなった。いくらなんでも、子供相手に酷すぎるでしょう? だから、すぐに連盟に電話をしたの。『強化選手からは外してくださって結構です。でも日本国民である以上、試合にエントリーはできるでしょう。試合に出れないということはないんじゃないですか』って」



当時のことを思い出すと、山田は今でも涙ぐむ。

「それから、みどりと話をしました。『誰にも文句を言われないくらい、強くなろう。名古屋で一緒に頑張ろう』と」



その後の試合で、伊藤みどりはダントツの1位を獲った。

そして、2人で泣いた。



結局、伊藤みどりは山田満知子の元で大成した。

1989年、フランス・パリ開催の世界選手権で、大会史上初となる「トリプルアクセル」を成功させて優勝。1992年、アルベールビル五輪で準優勝、オリンピック銀メダリストとなった。






「まっちゃん、おめでとう! とうとう、やったね! これで報われた。連盟、ざまあみろの気分でしょ?」

伊藤みどりが銀メダルに輝いたあと、連盟のある人が山田にそう声をかけてきた。

「連盟には疎まれているとばかり思っていたから、とても嬉しかった。あのときは、私よりも連盟の方々のほうが盛り上がっていた気がします」



伊藤みどりは銀メダルをこう振り返る。

「先生はすごい戦略家だったと思います。『伊藤みどりが世界と戦うために必要なものは何か』、それをずっと考え続けていました。オリンピックはすごく調子が悪くて、ジャンプをトリプルルッツにするか、トリプルアクセルにするか(ショートでは)迷っていたんです。そのとき、先生から言われたんです。『みどりの選択したほうが正解。いちばんいい』って。『たとえ、それで失敗しても構わない。私が後押しする。みどりだけの責任じゃない』って。試合だから、ほんとうは選手の責任なんですけどね。先生にそう言ってもらえたことは、大きな力になりました。それがあったからこそ、フリーのトリプルアクセル成功につながったのだと思います。一回失敗しても、もう一回挑戦しよう、跳ぼうと思えた。だから銀メダルをもらえた。そう思っています」






紆余曲折はあった。

それでも山田満知子がいたから、現在の日本女子フィギュアはある。山田は伊藤みどり以外にも、素晴らしい選手を育てあげた。浅田真央、村上佳菜子...。

「みんなタイプは違っていましたね。みどりも真央も佳菜子も、それぞれ違う。あの子は佳菜子はとっても弱いの。犬でいえばスピッツ。いつもキャンキャン鳴いている。みどりはウーって唸っているブルドッグかな。あの子はとにかく強かった。でも、一番強いのは真央。真央は吠えない。ジーっと潜んでいて、必要とあらば、ガッと飛びかかる。そんな強さがあった」






山田は指導者としての功績については「選手に恵まれただけ」としか答えない。

「わたしは運が良かっただけ。たまたまですよ。いい子たちに巡り合えてラッキーだったと思っています」

そしてやはり、伊藤みどりとの思い出は別格だ。

「みどりは、私にとって一番印象にのこる選手です。みどり以外にない。わたしが今こうしていられるのは、あの子がいたから。そのことは、いつも心にあります。私はみどりに心から感謝している」



山田が指導するリンクに重苦しさはない。大会前の追い込んだ練習をしているときでさえ、皆どこか楽しげに滑っている。それは昔から変わらない。

”山田は大勢の児童、生徒に囲まれ、あちこちから一度に声をかけられる。それに大声で返事をし、指示を出す。そうすると、子供たちは笑いながら、弾けるようにリンクに散っていくのである(Number誌)”



山田は言う。

「みどりや美穂子(樋口)など、手の掛かった子ほど、いつまでも残っている感じかしら。そんなところは、子育てと一緒だと思います。美穂子なんて、いまでこそ『先生』なんですけど、選手としては途中でクビになっているの、うちを(笑)。みどりもそう。あの子は本物の天才でしたから、つねに世界的な注目を浴びていました。それについてゆくのは本当に大変だった。ずいぶん苦労しましたが、二人とも今ではそばにいてくれる。それは、やはりありがたいです」



山田は樋口美穂子を現在、「相棒」と呼んでいる。

その相棒は言う。

「先生は何しろ、完全なおばあちゃんですからね。もうスケート靴は履かせられません。以前、リンクで転んで頭を打ったんですよ。まじめに心配です。いつまでも元気で楽しくいてほしいじゃないですか」

笑いながら樋口はつづける。

「あと、先生はよく食べ、よく飲みます。肉でも、私よりたくさん食べるんです。歳はとりましたが、先生は勉強熱心で時代に遅れまいとしている。新しいスタイルなど若い先生から学んでいます。(自分のほうが)立場が上みたいな意識はぜんぜんない。そのへんは感心というか、偉いと思います」



”山田ファミリー”は、よく笑う。

もう、おばあちゃんとなった山田満知子には、宇野昌磨という”孫”までできた(2014年ジュニアグランプリファイナル男子シングル優勝。全日本選手権、準優勝)。

リンクのフェンス際に立って、山田は言う。

「スケートをやめたいと、毎日思っているのよ。私もそろそろ、ゆっくり孫と遊びたいし。でも周りを見たら、佳菜子がいる、昌磨もいる、そのあとにも小さい子たちがいる。必要とされている間は、それに感謝して、続けていくんでしょうね。私はきっと」






(了)






ソース:Number(ナンバー)872号 ヒロインを探せ! 原色美女アスリート図鑑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
山田満知子「山田ファミリーの幸せ」



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2015年5月5日火曜日

地元愛の育んだ名選手、山口茜 [バドミントン]



その昔、福井県はバドミントンの 「お荷物県」と呼ばれていた。北陸の隣県である富山と石川、ともにバドミントンの強豪県だったからだ。

その ”お荷物県” から突如あらわれた「長谷川博幸」。インターハイの優勝からはじまり、実業団ヨネックス時代、日本一に輝いた。彼の出身地である勝山市(福井県)は大いに沸き立ち、地元での祝賀会も盛大に催された。

以後、バドミントンの火がついた勝山市、選手を育成する土壌が脈々と育まれていく。雪深い土地であるため、室内競技は育ちやすかった。



長谷川は言う。

「小さな田舎町ではあるけれど、この町に支えられながらバドミントンに親しんできました。僕の ”勝山愛” はバドミントン愛が多くを占めていて、勝山のバドミントンを包む環境が好きなんだと思いますね」

えちぜん鉄道、勝山永平寺線の終点、「勝山駅」。小さな駅舎に駅員は一人。市の人口は2万数千人。

日本屈指の豪雪地帯に、霏々翩々(ひひへんぺん)と雪片が舞い落ちる。”勝山” という地名の由来は、戦国時代に一向一揆が ”勝った山” だからと云う。






そんな土壌から、新しい才能が萌芽した。

山口茜(やまぐち・あかね)

勝高(福井県立勝山高校)の2年生。



背は低い。それでも、がっちりした下半身から繰り出されるショットは、スピードに溢れパワフルだ。

高校のバドミントン部の監督、小林陽年教諭は、山口茜を「男性的」と評する。そして、彼女の観察力に目をみはる。

小林監督「練習でも試合でも、ほかの選手の動きをじつによく観察しています。彼女が秀でた選手になれたのは、盗む力、そして工夫する力があったからだと思います」






高校一年生で出場したヨネックスオープン(2013)、山口は史上最年少での優勝を果たし、一気に刮目される存在となった。

同年、世界ジュニア(バンコク)で金メダル。翌年、同大会(マレーシア)で2連覇を達成する。全日本選手権でも初優勝(2014)。

一躍、時の人となった。






山口が初めてラケットを握ったのは3歳。2人の兄がするバドミントンを真似したかった。

父親は、そんな子どもたちのために自宅近くに簡易コートをつくってあげた。そこで遊びながらバドミントンを覚えていった山口茜、まだ保育園に通っていた5歳のとき、小学1・2年生の部の大会で優勝してしまう。



小学生になると、そのスピードとスマッシュの威力は群を抜いていた。小学校の6年間で、試合に負けたのは1度だけだったという。

山口茜「最初はスマッシュを見て『カッコいいな』と思ったんですね。やがてゲームの駆け引きも面白くなってきて、このスポーツが好きになりました。ランクが上の相手にでも、試合の流れをつかめば勝てるんです」

”負けず嫌いの子、であった。ゲームで大人相手に敗れ、鼻血をだしながらオイオイ泣いた日もあった。いつもはニコニコしていて素直な子。恥ずかしがり屋さんでもあった(Number誌)”



勝高(勝山高校)のバドミントン部は、男女あわせて21名。

その練習する体育館では、部員以上に熱心なボランティOBが指導を繰り広げる。地域の人々がバドミントンを支えるのは、”勝山愛” という絆意識があってこそ。

「鮭が生まれた川に戻るがごとく」

勝山で育った選手は、地元に帰ってきてバドミントンの指導者になる者が多いという。現在、地元クラブ「勝山チャマッシュ」の総監督を務める上田健吾氏も、その一人。彼は長らくジュニア日本代表のコーチであった。

その上田監督の指導を、山口茜は「スポンジのように」吸収したという。彼女が「ゲーム巧者」となったのは、彼の指導の賜物であった。

”勝山が生んだ最高傑作”

上田監督は、山口茜をそう評する。



地元あってこそ。

それを山口茜は肌身に感じている。

山口茜「いずれは勝山に戻ってきて、地元に貢献したいという思いがあります。競技を続けていれば、いつか勝山から離れなければいけなくなる日が来ると思いますが」

実際、山口は海外遠征やナショナルチームの合宿で地元を離れることが多くなってきた。それでも彼女は、同じ高校の部員たちと練習することを好む。「先生のメニューでいいから」と特別扱いも嫌う。

高校の小林監督は言う。

「山口は、みんなと一緒に強くなっていきたい、と思っているんです」

町の人たちは「山口茜選手を育てる会」を結成して、一丸となってバックアップ体制を整えている。2018年、地元福井で開催される国体のバドミントン開催地は、ここ勝山だ。



”笑顔の連鎖を巻き起こす”

自分が好きな言葉を、山口茜は色紙に書いた。



彼女は言う。

「勝てば、みんなやコーチの笑顔が見られるから」






(了)






ソース:Number(ナンバー)872号 ヒロインを探せ! 原色美女アスリート図鑑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
山口茜「みんなと一緒に強くなりたい」



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2015年5月2日土曜日

「次に叩く一回で、その壁は破れるかもしれない」 [松岡修造]



松岡修造(まつおか・しゅうぞう)は言う。

「手前味噌となってしまうが、日めくりカレンダー『まいにち、修造!』が多くの支持を受けているという。

”次に叩く一回で、その壁は破れるかもしれない”

というメッセージが特に人気とのこと」






松岡修造「夢に向かう道のりには、破れるかも定かではない、大きな壁がいくつもある。もしも ”100回叩けば壊れる” ことが分かっていたら、誰もが100回叩くであろう。だが、破れるかどうか分からなければ、99回叩いて100回目を叩かずして諦めてしまうかもしれない。その ”1回” が人生を分けるのだ。だからこそ叩き続けてほしい。壁の先へ行きたければ、叩き続けるのだ。必ず壁を破れると自分を信じて」




ソース:Number(ナンバー)871号 ジャパンクライシス 日本サッカーはなぜ弱くなったのか? (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
熱血修造一直線!「2020年、東京五輪へ”壁”を叩き続けよう」



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