2015年5月8日金曜日

山田満知子と伊藤みどり [フィギュア]



山田満知子(やまだ・まちこ)がフィギュアスケートをはじめたのは、5歳のときだった。

本当は父は、娘をバイオリニストにしたかった。しかし、交響楽団に連れて行ったら「小さすぎる」と断られた。それで、小さくてもやれるスケートを習わせることにしたのだった。



「まったく、ひどい有り様。少しも面白くないの」

幼少時の話をするときの山田は、すこし不機嫌だ。当時、まだ創成期にあったフィギュアスケートは一からつくっていく途中であったため、連盟の役員はじめ誰も指導のノウハウをもっていなかった。

「うちの父は公務員だったけれど、仕事から帰ってから辞書で調べていました。『どうもシットスピンというのは、こういうものらしい』とかね」

海外から持ち込まれた専門書を、なんとか翻訳しながらの指導であった。

「父が喜んでくれるからスケートを続けましたが、最後までヤル気は起きませんでした。いつも『辞めたい』って心の中では思っていました」

国体で優勝した山田であったが、「あの頃はやっている人が少なかったから」と彼女は言う。結局、彼女にとってのスケートは「退屈」の域を出ることがなかった。



それでも山田には夢があった。

「もし将来、自分がスケートを教える立場になったら、リンクを ”最高に楽しい場所” にしよう」

20歳になった時、知人からスケート教室を頼まれた。山田はそこで理想を体現した。その「誰もが笑顔でいられる教室」は大変に好評で、すぐに枠が増え、広がっていった。

指導者になってはじめて、「本当にやりたかったスケート」と山田はようやく出会えた。






そんなある日、5歳の少女がふらりとスケート教室を訪れる。

「すごいチビでねぇ、ちょこまかちょこまか動き回って、山猿みたいだった」

のちの五輪メダリストとなる「伊藤みどり」との出会いである。山田満知子、31歳のときだった。

「みどりはまさに自然児でしたから、ときどき思いました。アルプスの少女ハイジのように『この子は山の中を走り回っていたほうが幸せなのではないか』って」

2人の運命は、大須のリンクで交わった。






当時、伊藤みどりを取り巻く家庭環境は複雑だった。両親が離婚して母親に引き取られ、とてもフィギュアスケートを続けられる環境にはなかった。

そんな少女を見るに見かねた山田、頻繁に家に招くようになった。みどりが10歳の頃には、完全に同居するまでになっていた。

「ただ、幸せにしてやりたかった。みどりの能力、性格を知るにつけ、『あぁ、この子ならスケーターとして成功できるのではないか、幸せになれるんじゃないかな』と思ったんです」






伊藤みどりの才能は本物だった。当時の伊藤に対する日本の期待には、凄まじいものがあった。

「それは皆さん、期待しますよ。何度も言うけど、みどりは物凄い選手だった。あんな選手は日本で初めて。ほんとうにスゴイ。憧れちゃう。悔しいので、みどりの前ではあまり言いたくありませんが(笑)。当時、私はあの子の欠点ばかりに腹を立てていましたけど、昔の映像を見ると『わー、すごいな』って素直に思いますよ」

伊藤みどりへの世間の期待は、「世界一になって当たり前」というくらいに大きなものだった。そのため、その天才を「山田の元に預けておいていいのか」という疑問の声があがった。

「私はもともと著名な選手ではなかったですし、所属は設備の整わない名古屋のリンクでした。必死で全力を尽くしても、『世界一になって当たり前』という期待についていくのが一杯いっぱいでした。求められているのは、はるかに高いところだったんです」






日本スケート連盟は、山田に具体的な案を示した。海外のコーチに師事させる案もあった。

「みどりを名古屋から離そう、東京へ呼ぼうという話は、小学生の頃からありました。でも、その時はまだ早すぎた。みどりは扱いの難しい子です。一緒に暮らしていくのは悩みの連続で、苦労も多かった。私は親としてあの子と向き合い、一緒に物事を考えてきました。でも東京に出したら、そうはいかない」

山田は頑として連盟の申し出を受け入れなかった。

「それに、もしスケーターとしてうまくいかなかったら? あの子は見捨てられるかもしれない。そうなったら、いったい誰が責任をとってくれるのか。みどりは犬や猫ではありません。人間なんですよ。私は親として、申し出を断りました」



山田の姿勢が軟化するのは、伊藤みどりが中学生になってから。連盟からは相変わらず留学の話がきていた。

「私もそろそろいいのかな、みどりも一人でやっていけるかな、と思いはじめたんです。もっと自由にしてやるべきなのかもねって」

じつはこの時、日本スケート連盟はJOC(日本オリンピック委員会)の協力も得て、伊藤みどりの「金メダル」へのレールを十全に計画していた。



しかし、それを知ったみどりは大いに悩んだ。

「あの子は可哀想なくらい真剣に考えていました。私は、選手をなにがなんでも自分の手元に置こうとは思いません。よい道があって、その子が行きたいと言うのなら、そちらに行かせてやりたい。出会いがあれば、別れがあるの、人生って」



悩みに悩んだ伊藤みどりは、ついに泣きながら山田にこう言った。

「わたし、やっぱり名古屋から離れたくない。このままずっと、先生とスケートをしたい。これからも、先生のところにいさせてください!」

そして自ら、連盟に断りの電話をかけた。






すると連盟は逆ギレした。

山田は言う。

「部屋に行ってみると、みどりはわんわん泣いていました。2度断ったのに受け入れてもらえず、あげくは『そんなに反抗するなら試合に出さない』と言われたらしかった」

泣きじゃくるみどり。

「先生、どうしよう。わたし、もう試合に出られない!」

”親”として、山田は激昂した。

「私は怒りました。かーっとなった。いくらなんでも、子供相手に酷すぎるでしょう? だから、すぐに連盟に電話をしたの。『強化選手からは外してくださって結構です。でも日本国民である以上、試合にエントリーはできるでしょう。試合に出れないということはないんじゃないですか』って」



当時のことを思い出すと、山田は今でも涙ぐむ。

「それから、みどりと話をしました。『誰にも文句を言われないくらい、強くなろう。名古屋で一緒に頑張ろう』と」



その後の試合で、伊藤みどりはダントツの1位を獲った。

そして、2人で泣いた。



結局、伊藤みどりは山田満知子の元で大成した。

1989年、フランス・パリ開催の世界選手権で、大会史上初となる「トリプルアクセル」を成功させて優勝。1992年、アルベールビル五輪で準優勝、オリンピック銀メダリストとなった。






「まっちゃん、おめでとう! とうとう、やったね! これで報われた。連盟、ざまあみろの気分でしょ?」

伊藤みどりが銀メダルに輝いたあと、連盟のある人が山田にそう声をかけてきた。

「連盟には疎まれているとばかり思っていたから、とても嬉しかった。あのときは、私よりも連盟の方々のほうが盛り上がっていた気がします」



伊藤みどりは銀メダルをこう振り返る。

「先生はすごい戦略家だったと思います。『伊藤みどりが世界と戦うために必要なものは何か』、それをずっと考え続けていました。オリンピックはすごく調子が悪くて、ジャンプをトリプルルッツにするか、トリプルアクセルにするか(ショートでは)迷っていたんです。そのとき、先生から言われたんです。『みどりの選択したほうが正解。いちばんいい』って。『たとえ、それで失敗しても構わない。私が後押しする。みどりだけの責任じゃない』って。試合だから、ほんとうは選手の責任なんですけどね。先生にそう言ってもらえたことは、大きな力になりました。それがあったからこそ、フリーのトリプルアクセル成功につながったのだと思います。一回失敗しても、もう一回挑戦しよう、跳ぼうと思えた。だから銀メダルをもらえた。そう思っています」






紆余曲折はあった。

それでも山田満知子がいたから、現在の日本女子フィギュアはある。山田は伊藤みどり以外にも、素晴らしい選手を育てあげた。浅田真央、村上佳菜子...。

「みんなタイプは違っていましたね。みどりも真央も佳菜子も、それぞれ違う。あの子は佳菜子はとっても弱いの。犬でいえばスピッツ。いつもキャンキャン鳴いている。みどりはウーって唸っているブルドッグかな。あの子はとにかく強かった。でも、一番強いのは真央。真央は吠えない。ジーっと潜んでいて、必要とあらば、ガッと飛びかかる。そんな強さがあった」






山田は指導者としての功績については「選手に恵まれただけ」としか答えない。

「わたしは運が良かっただけ。たまたまですよ。いい子たちに巡り合えてラッキーだったと思っています」

そしてやはり、伊藤みどりとの思い出は別格だ。

「みどりは、私にとって一番印象にのこる選手です。みどり以外にない。わたしが今こうしていられるのは、あの子がいたから。そのことは、いつも心にあります。私はみどりに心から感謝している」



山田が指導するリンクに重苦しさはない。大会前の追い込んだ練習をしているときでさえ、皆どこか楽しげに滑っている。それは昔から変わらない。

”山田は大勢の児童、生徒に囲まれ、あちこちから一度に声をかけられる。それに大声で返事をし、指示を出す。そうすると、子供たちは笑いながら、弾けるようにリンクに散っていくのである(Number誌)”



山田は言う。

「みどりや美穂子(樋口)など、手の掛かった子ほど、いつまでも残っている感じかしら。そんなところは、子育てと一緒だと思います。美穂子なんて、いまでこそ『先生』なんですけど、選手としては途中でクビになっているの、うちを(笑)。みどりもそう。あの子は本物の天才でしたから、つねに世界的な注目を浴びていました。それについてゆくのは本当に大変だった。ずいぶん苦労しましたが、二人とも今ではそばにいてくれる。それは、やはりありがたいです」



山田は樋口美穂子を現在、「相棒」と呼んでいる。

その相棒は言う。

「先生は何しろ、完全なおばあちゃんですからね。もうスケート靴は履かせられません。以前、リンクで転んで頭を打ったんですよ。まじめに心配です。いつまでも元気で楽しくいてほしいじゃないですか」

笑いながら樋口はつづける。

「あと、先生はよく食べ、よく飲みます。肉でも、私よりたくさん食べるんです。歳はとりましたが、先生は勉強熱心で時代に遅れまいとしている。新しいスタイルなど若い先生から学んでいます。(自分のほうが)立場が上みたいな意識はぜんぜんない。そのへんは感心というか、偉いと思います」



”山田ファミリー”は、よく笑う。

もう、おばあちゃんとなった山田満知子には、宇野昌磨という”孫”までできた(2014年ジュニアグランプリファイナル男子シングル優勝。全日本選手権、準優勝)。

リンクのフェンス際に立って、山田は言う。

「スケートをやめたいと、毎日思っているのよ。私もそろそろ、ゆっくり孫と遊びたいし。でも周りを見たら、佳菜子がいる、昌磨もいる、そのあとにも小さい子たちがいる。必要とされている間は、それに感謝して、続けていくんでしょうね。私はきっと」






(了)






ソース:Number(ナンバー)872号 ヒロインを探せ! 原色美女アスリート図鑑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
山田満知子「山田ファミリーの幸せ」



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